005酒場の景色の一部として

05 酒場の景色の一部として

ぼくらは何をしに酒場へ行くのだろうか。

そりゃまあ酒を飲みに行くに決まってるんだけど、飲むだけだったら家でも飲める。なんなら路上でもいい。さすがに冬は厳しいけれど、あったかい季節だったらコンビニで缶ビールと柿ピーなんか買って、公園のベンチで飲むこともできる。それはそれで楽しい酒の飲み方だといえる。でも、今回はそういう話をしたいわけじゃない。わざわざ酒場に行って飲む。その目的は何か? 酒を飲むこと以外の目的はあるのか?

「マスターの作る料理が、どれもおいしいから……」

はい「つまみが目当て説」出ました。当社調べでは、だいたい4割ぐらいの人(てきとう)が、おいしいものを食べにいくのを理由にあげているようです。つまみがおいしければ、酒も進む。けっこうけっこう。

「あの店には貴重な日本酒がそろってるからなあ……」

おっと「酒へのこだわり説」ですか。当社調べでは、だいたい3割ぐらいの人(てきとう)が、おいしい酒を飲みたくて酒場へ足を向けるのだとか。当たり前の話ではあります。酒にこだわらない人はいても、わざわざまずい酒を飲みたい人なんていないのだから。

「気の合う仲間と盛り上がる。それがいちばん!」

これは「騒げる場がほしい説」とでも言いましょうか。まあ、そういう飲酒のあり方もあるよね。当社調べでは……って、てきとうな数字の話はもういいか。

とにかく、酒を飲みに行くということは、つまみを楽しむか、酒を楽しむか、会話を楽しむか、ようするにこの3パターンが大半を占める。むしろ、それ以外の理由なんてあるのだろうか?

あるんだな、これが。

冬の東京都内。とある町の寂れた一角。年期の入った白い暖簾が、夕暮れの風を受けてゆっくりはためいている。暖簾には「大/衆/酒/場」という頼もしい四文字が染め抜かれている。

カラカラカッと硝子戸を引き開けると、店内には左右に伸びるカウンターだけがある。そこに先客がひとり、ふたりと取り付いて、背中を丸めながら黙って酒を飲んでいる。

座った席からはストーブがちょっと遠いため、身体の左側だけにかすかな暖気を感じる。いつもならチューハイを頼むところだけど、今日はちょっと寒いからチューハイは遠慮して、いきなり燗酒からいっちゃおう。弱火にかけられたでかい鍋の中には、緑色の1合瓶がたくさん浸してある。酒が風呂に入ってるみたいだなあ、などと考えながら、出された酒をぐいっと煽る。

店内にはテレビなんてない。有線もない。かといって、まったく無音でもない。調理場にぶらさがったトランジスタラジオから、よく聴き取れない番組がジジジっと流れてくるからだ。他にきこえてくるのは、やかんのお湯がちんちん鳴る音と、ときおり客がグラスをカウンターに置くときの音。BGMはそれだけ。

そんな雰囲気の中で飲んでいると、ふっと自分の意識が肉体を離れて、店の天井付近に浮かんでいるような心持ちになる瞬間がある。カウンターの内側で新聞を読んでいる店主、左側でサバ塩をつついている客、右側で空のお銚子を逆さに振っている客、その真ん中でお猪口を手にしている自分。それらが客観的な風景として、自分の意識に入ってくるのだ。

酒場の風景の中に混ざって、溶け込んでいる自分。

30代の後半になってひとり飲みを始めた頃は、雑誌やネットでいい酒場を探しては、いそいそと飲みに出掛けていた。経験が足りなかったのか、風貌や立ち居振る舞いがまだ青臭かったのか、最初のうちはその世界に入り込めない気がしていた。渋くていい店に行き当たると、だからこそ「まだおれはここでは浮いてるなあ」という気がしていた。

40代になってもまだダメだった。それが50歳を過ぎたあたりから、違和感を感じなくなった。おそらく外見的にも、内面的にも、文字通り“年寄り”になったということなのだろう。

いい酒場と出会うと、そこに通いたくなる。もちろんその目的はうまい酒だったり、肴だったり、人だったりする。けれど、気持ちさえもピタリとはまれるいい酒場には、別の目的があって行く。その店の「風景の一部」になるために。

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