見出し画像

12 エアつまみ

落語に「しわい屋」という噺がある。古い言葉で言えば吝嗇、今の言葉にするなら倹約家、早い話がドケチな旦那が、日常生活からご近所づきあいの一時から万事にかけてケチケチする、という滑稽話。

梅干しをじっと見つめて、口の中に唾が湧いてきたら、それをごくりと飲み込んでめしを食う。また見つめて唾が湧く。そいでもってめしを食う。手付かずの梅干しは棚に仕舞っておいて、また明日のおかずにする。これなら永遠にめしが食えるというわけだ。

この旦那、ときに隣の鰻屋から流れてくる煙の匂いを嗅いでめしを食うこともある。すると、その噂を聞いた鰻屋の主人がやってきた。

「お勘定をいただきにめェりやした」
「なんだィ、俺んとこじゃ鰻なんぞ食った覚えはねぇぞ」
「いいえ、鰻の匂いの“嗅ぎ賃”をいただきたいんで」

これに対して旦那の方も負けてはおらず、懐から財布を出して小銭の音をチャリンと鳴らすと、「この音だけ聞いて帰れ」と言ったという──。

非常に有名な噺なので、落語通でなくともこのくだりをご存知の方は多いだろう。ぼくはこれが大好きで、一人で飲み屋に行くと、つい、似たような真似をしてしまう。それが「エアつまみ」だ。

エアつまみには、何パターンかのバリエーションがある。もっともシンプルなのは、もつ焼き屋で焼き台から漂ってくる煙を嗅いで飲むこと。しわい屋の旦那とまるで同じ行動。さすがに現実社会で何もつまみを注文せずに酒だけ飲んでるわけにはいかないので、一皿くらいは注文する。ぼくは少食なのでそれで十分だったりするのだが、酒だけは飲み続けたい。なので、あとは煙をクンクン嗅ぎながら飲むってわけ。

立ち飲み屋などには、冷蔵式のショーケースに作り置きのつまみが並んでいて、それを客が自分で取り出してくるタイプの店がある。そこで何を取るか悩んでるふりをしながらショーケースを眺め、その記憶を肴に飲むというパターン。これも金がかからない。

いちばん安いお新香かなんかをつまみつつ、脳内ではその横にあった中トロの刺身を思い描く。程良く脂の乗ったピンク色の横っ面にわさびを塗り、醤油をたっぷりかけて頬張ると……ポリッ。実際にかじってるのはキュウリ漬けなんだからしょうがない。

他の客が食べているつまみを見て飲む。これはかなりハイレベルだ。あいつの食ってる鯖の塩焼き、うまそうだなあ……、なんてあんまりジロジロ見ていると、目が合ってしまって気まずい。適当に笑って誤魔化し、こちらの飲んでるグラスをちょっと傾ける。おれの酒、見る? なんて。これまた「しわい屋」の旦那と同じ行動だ。

酒場ではなく、家でよくやるのはもつ焼きの写真を見て飲むことだ。買い物をしそびれて、ろくなつまみが作れないときに、さっとスマホを取り出して写真を見る。そして飲む。そのため、ぼくのスマホには過去に食べてきたうまいもつ焼きの写真フォルダーがある。

ここでチカラを発揮するのは、いまではもう食べることのできなくなったレバ刺しの写真だ。赤黒い塊にかかったゴマ油。レバそのものはとくに好きではないが、あのちょっと血の混じったゴマ油がたまらない……。

家でエアつまみ飲みをしたあとのシメは、エアラーメンである。やはりスマホには好きなラーメンの写真ばかり入れたフォルダーがあって、これがまたいい仕事をする。

実際に食べに行こうとすれば電車で片道4時間半もかかる秩父の珍逹そばも、いまはなき築地場内磯野家のニラそばも、なんならマレーシアで食べたルーイーメンも、いつだって振り返ることができる。実際に食べているのがたとえチキンラーメンだったとしても。

気が向いたらサポートをお願いします。あなたのサポートで酎ハイがうまい。