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15 中目黒のよっぱらい姐さん

 ぼくがミニコミではなく商業誌に初めて寄稿したのは1983年の『ザ・シングル盤』というムック本だが(刊行自体は1984年1月)、そのときはまだ製図の会社に勤めていた。その後、『よい子の歌謡曲』での活動を経て、1985年に会社を辞めると共に本格的なフリーライターの道へと歩み出す。
 原稿依頼のあてなんかほとんどなかったけど、毎朝7時に家を出てぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に揺られることに精神の限界がきていたので、そこから解放されることだけが希望の光だった。
 それまで、いくらだらしのないぼくでも「お酒は仕事を終えてから飲むもの」「日が暮れてから飲むもの」という意識があったのだが、自営業になるとそのタガが外れてしまう。「酔ってるス」の第29回「原稿用紙の横に酒を」にも書いたが、景山民夫さんの真似をして昼間からレッドアイを飲みながら原稿を書こうとしたりしていた。まあ、それはホンの憧れで、さすがに習慣的に昼から飲むようなことはしていない。だいいち、この頃はまだ一人で飲みに行くような習慣もなかった。まだ、ぼくがお酒と会話ができていない時代だったのだ。

 駆け出し時代のぼくの生活において、かなりの比重を占めていたのが「ヘッドルーム(※)」という編集プロダクションの仕事だった。ここはナムコから独立した粕川由紀さんが代表を務めており、ぼくの初の著書となった『ゲームブック・妖怪道中記』(電波新聞社)も、編集スタッフとしてお手伝いした『新明解ナム語辞典』(西島孝徳著/ソフトバンク)も、どちらもヘッドルームから依頼を受けての仕事だ。

※正確には、『新明解ナム語辞典』(1987年)の時点では粕川さんはまだナムコに在籍しており、ヘッドルームを法人化させたのは1988年になってからだ。

 粕川さんは若い連中の面倒見がいい姐御肌の人間で、ぼくもずいぶんお世話になった。常に仕事を振ってくれるだけでなく、金のないときはメシを食いに連れて行ってくれたし、しょっちゅう飲みにも誘われた。一緒に行動している時間がやけに多かったので、あるゲーム雑誌の編集長からは「とみさわくんって、ひょっとして粕川さんとデキてる?」と真顔で聞かれたほどだ。仮にそう思ったとしても、そんなこと本人に聞くかね。誰とは言わないがゲスい人だったなー。
 粕川さんはぼくの2コ上で姉と同い年だったから、ぼくにとっては業界の姉貴分みたいな存在だった。サブカル好きで気も合うので、飲みに行っても話題が尽きなかった。
 ヘッドルームは創業からいまに至るまで中目黒という土地を拠点にしているので、二人で飲みに行くのも中目黒の店ばかりだった。
 いちばん通ったのが「居酒屋べったこ」。焼き鳥がメインの店で、日比谷線のガード下のちょい脇にあった。それまで焼き鳥といったら、ねぎま、つくね、鳥皮、手羽先、砂肝くらいしか知らなかったが、ここで初めて「ぼんじり」というものを食べた。食べログで調べたら「べったこ」はまだ同じ場所で営業していた。チェーン店とはいえ、35年前から変わらず営業を続けていられるというのはすごいことだ。
 もう一軒よく覚えているのは、これも串焼きの店で「串若丸」。山手通りの北側にあり、ここもうまいと評判の店で、いつ行っても混んでいた。つくねは卵黄に付けて食うとうまい、ということを覚えたのも、中目黒時代だったような気がする。
 ともかく、粕川社長にはフリーライターとしての基礎を叩き込んでもらっただけでなく、何杯も空にしたグラスと、何本もの串が刺さった串入れが、懐かしい顔の記憶として刻まれている。

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