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45 厚揚げ納豆の桃源郷

常磐線沿線のとある町に、ぼくが愛して止まないもつ焼き屋が2軒ある。どちらも、雑誌などで「東京下町の酒場グルメ」なんて特集があったなら、ほぼ必ず掲載されるような名店だ。

この2軒の店、料金は大差ない。もつ焼き(4本)の皿を2枚に、ハイボールを3杯もお替わりすれば、だいたい勘定は2千円弱。それでいい心持ちになれる。せんベロ……というわけにはいかないが、にせんペロリンくらいの気持ちよさがちょうどいい。

店のキャパシティも、両店ともに30人来れば満席といったところだろうか。夕方の開店と同時に地元の常連客がなだれ込み、あっという間に満席になる。このタイミングを外すと次の順番待ちで並ぶことになるが、こうしたもつ焼き屋は深酒をする場所ではないので、客の回転はいい。どちらも地元民に愛されている店だ。

しかし、このよく似た2店には、決定的な違いがある。そして、その違いが理由となって、ぼくは片方の店にばかり行ってしまうことになる。どちらの店も好きであることには変わりないが、それでも、どちらかと言われたら、つい片方の店を選んでしまうのだ。

このふたつの店を、ここでは仮にA店/B店と呼ぶことにしよう。そして、ぼくがより愛しているのは、A店の方だ。

どちらもいい店であることには変わりないのだが、なぜA店ばかりを偏愛してしまうのか? その理由は店内の客席構造にある。

A店は、厨房エリアをぐるりとコの字型のカウンターが囲んでいて、一辺だけは椅子席になっているが、残りはすべて立ち飲みである。これに対して、B店はすべて椅子席で、厨房に向き合ったカウンターに約10の椅子席、残りはすべてテーブル席だ。

おわかりだろうか。それぞれに共通する「カウンターの椅子席10」を抜きにして考えれば、A店とB店の違いが明白になってくるはずだ。

つまり、A店は立ち飲みの店、B店はテーブルの店、なのである。

このことは、単に席のスタイルが違うというだけでは済まされない。席のスタイルが違うことによって、おのずと集まる客層も変わってくるのだ。

A店は立ち飲み。ということは、ひとり客が中心になる。
B店はテーブルの店。ということは、グループ客が中心になる。

この連載エッセイを読み続けてこられた方なら、そろそろお気づきかと思うが、ぼくはとにかくひとりで静かに飲むのが好きなのだ。そして、A店は圧倒的にひとり客が多く、誰も会話をせずに黙々と飲んでいる。一方、B店はグループ客が多いので、店内のあちこちで会話が繰り広げられている。この違いは、実に大きい。

酔いで脳が麻痺してくると聴力が落ちるのか、酔っぱらいというのは次第に声がデカくなるものだ。おまけに隣の客も大声で会話をしていたら、いっそう自分たちの会話は聴き取りづらくなる。それで、さらに声がデカくなる。大声の連鎖が起こるのだ。

静寂を愛するぼくは、ついB店の騒音を避けて、静かなるA店に行ってしまう。それで幸せなのだ。選択肢があってよかった……。

と言いたいところだが、それでもB店に行かざるを得ないときがある。ひとりで静かに飲みたい気持ちは変わらずあるのに、あえて喧騒の中へ飛び込んでしまうのはなぜか。

A店もB店も料金はほぼ同じ。もつ焼きの味も、ハイボールの味も、同レベル。それでもぼくがわざわざB店に飛び込んでしまうのは、そこに至高のおつまみ「厚揚げ納豆」があるからだ! 

注文してからおよそ15分。じっくり焼かれた厚揚げは食べやすいように包丁で6等分してある。皿の脇には納豆が添えてあり、粗めに刻んだネギもたっぷりだ。こいつに店自慢の辛味噌とおろしニンニクを混ぜ込んでやる。醤油はいらない。ほどよく糸を引いた納豆を厚揚げにぶっかけて、ガブリと頬張ると……夢心地である。精神は肉体を離れて桃源郷に飛び、このときだけは店内の喧騒がかき消されるのだった。

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