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44 はみ出しグルメの世界

 それは2015年のこと。高円寺でのDJイベントを終え、帰りにひとり酒場で一杯ひっかけていた。ホッピーと、つまみはマカロニサラダ。直径10センチほどの皿にこんもりと盛られている。
 その状況を写真付きでTwitterに投稿したら、まついなつきさんがそれを見て、こうコメントした。

「はー、おいしそう。はみ出していてたまらない」

 その店のマカロニサラダは盛りつけがよく、いつも皿からはみ出している。少食のぼくは、このマカロニサラダさえあればホッピー3杯くらいはイケてしまう。まついさんのコメントに対して、ぼくは次のように返信した。

「はみ出してるものってうまいよね。ホットドッグとか」

 すると、まついさんはこう返してきた。

「ホットドッグは、ソーセージじゃなくて、うまさがはみ出てる」

 その瞬間に、ぼくはひらめいた。おいしいものをカテゴライズする方法のひとつに、「はみ出しグルメ」というジャンルがあるのではないか、と。
 まついさんは、ぼくのその発言に「とみさわさんがまた天才なことを言い出した」と讃えてくれたけど、天才なのはぼくじゃない。はみ出しグルメの本質を「ホットドッグは、ソーセージじゃなくて、うまさがはみ出てる」と喝破したまついさんの方だ。それがなかったら、ぼくは「はみ出しグルメ」なんて言葉を思いついていない。

 はみ出しているからこその「うまさ」ってあるよな、とは以前からなんとなく感じていた。
 たとえば、天むす。
 普通におにぎりと海老天を食べるよりも、おにぎりの中に海老天を入れて、なおかつ尻尾がはみ出ていると、なんだか実際以上においしそうな気がしてしまう。
 あるいは、鯛焼き。
 鯛焼き本体がおいしいのは言うまでもないことだが、その周辺にはみ出しているバリがまたうまい。バリが多いほど得した気がする人は多いだろう。
 これと似たようなものに、岩手県の銘菓・南部せんべいがある。小麦粉とゴマ、もしくはピーナッツ。原料は本体となんら変わりがないのに、バリの方がおいしく感じられる心理。
 鯛焼きも、南部せんべいも、そのバリが受けるもんだから意図的にはみ出させたり、バリだけ袋詰めにして売られたりすることがあるが、それはいただけない。わざと作ったバリはバリじゃない。はみ出ているのと、はみ出させているのは違うのだ。

 その発端が「皿からあふれんばかりのポテサラ」だったので、そういうものこそがはみ出しグルメだと誤解する方も多いと思うが、あれはあくまでも「はみ出しグルメ」の概念を閃くきっかけだったに過ぎない。むしろ、そのあとに検討していく過程で出てきた「天むす」にこそ本質がある気がする。
 ただ、酒友のひとりでもあるモギ氏も言っていたが、「製造過程等で仕方なくはみ出してしまった部分のうまさ」こそがはみ出しグルメだ、とする説は捨てがたい。そういう意味では、天むすも「はみ出し」が意識的すぎるのだ。
 はみ出ているものと、はみ出させているもの。その両者の境界を考えるために、とてもわかりやすい例となるのが「羽根付き餃子」である。
 最初は、餃子を焼いている過程でたまたま小麦粉の溶け出した汁が焼かれて水分が蒸発し、羽根のような状態で残った。でも、食べてみたらそれが「パリパリ食感」で、「得した感」もあって、客の人気を呼んだ。このように自然発生した羽根付き餃子は、正しい意味でのはみ出しグルメである。
 ところが、過剰に羽根付きを追い求めるあまり、片栗粉を溶いたお湯を流し入れるなどして、意図的に大振りの羽根をこさえるようになっていった。それはそういう形の餃子であって、はみ出しグルメとは別物になってしまっているのだ。

 回転寿司などで、たまに「イクラかけ放題」のようなサービスをやっている店がある。豪勢なのはいいことだが、皿からこぼれるほどにイクラをかけるのはなんだか汚らしく感じられるし、シャリをはみ出すほど大きく切られて皿にペタリと付いているようなマグロの握り寿司なんかは、銭湯での王貞治のエピソードを思い出してしまって食欲が失せる。握り寿司というのは、ネタとシャリの大きさの調和がとれていて、ポイとひと口で食べられてこそのものだと思うのだ。
 最近の話題だと、ラーメンプロデューサーの渡辺樹庵氏がよく言う「チャーシューぺろん」も、ラーメン界におけるはみ出しグルメの一種と言えそうだが、あれもまた汚らしいので、ぼくは好きじゃない。
 はみ出しグルメというのは、お得感と下品さのギリギリのバランスの上に成り立っている。いつかは、浅草「大黒屋」の名物天丼についても議論しなければなるまい。

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