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02 O坪屋の女神の栓抜きは踊る

酒場のフロアを取り仕切るマスター、もしくは女将さんというのも、ある意味で酒場の顔だ。

ぼくがこれまでに見てきた中でもっとも印象深い顔が、南千住の有名店「O坪屋」で客席フロアの一切合切を取り仕切っている女将さん、通称「魔女」だ。誰が名付けたのかは知らないが、店のファンから親しみを込めてそう呼ばれている。

この店は、労務者の多い町にありがちな煮込みをメインディッシュに据えた大衆酒場で、席は長いコの字のカウンターと、3つほどのテーブル席しかないのだが、初めて訪れた客はいきなり着席時に魔女の洗礼を受ける。

勝手に好きなところに座ると叱られてしまうのだ。

魔女、と書き続けるのは心苦しいのでここからは「彼女」で統一させてもらうが、カウンターの右サイドと奥は常連さんの席と決まっていて、一見の客、もしくは彼女に顔を覚えられていない客はカウンターの手前の列にしか座れない。二人連れでもカウンターに案内される。

注文するのにもローカルルールがある。客の勝手なタイミングでつまみを注文すると、怒られるのだ。

彼女の気持ちになってみれば、わからないでもない。人気店なのでいつも混雑している。そのフロアを彼女が一人で切り盛りしている。そこへ四方から勝手に注文されたら混乱する。だからまず「注文お願いします」と声をかけておく。すると、彼女が手の空いたタイミングでこちらに問いかけてくれる。そこですかさず希望のものを伝えるのだ。

考えてみれば当たり前のことだ。我々はいつのまにか客の立場にあぐらをかき、商人の親切に甘えすぎていたのだなと、思い知らされる瞬間である。

なぜ、彼女が魔女と呼ばれるのようになったのか。その理由はわからない。カウンターの中をヒラヒラと舞うように立ち働く姿が、死の舞踏を踊る魔女のようだからかもしれないし、いつまでも若々しく動き回る姿が不死を連想させるのかも知れない。

注文を受けた彼女は花のように舞って厨房へつまみを伝え、蜂のように羽ばたいて炭酸の栓を抜く。ッポーン!という威勢のいい音が店内に響き渡る。もう、その音だけで飲めるのだ。

もうひとつ、忘れてはならないこと。この店における最大の禁忌は「写真を撮ってはいけない」ということだ。

それ自体は珍しいことじゃない。とくに下町の老舗の酒場においては、そういう店は少なくない。この店のすぐ近所にある「O林」なんか、写真どころか私語すら厳禁だ。それに比べりゃ楽園、楽園。

一度、O坪屋で最高な場面を目撃したことがある。

ぼくが友人と二人で飲んでいたとき。入り口の戸がガラリと開いて、一人の若い客が中を覗き込んだ。「6人、入れますか?」と聞く。開店してすぐの時間ならともかく、日も落ちてからこの店にそんな人数で来るのは無茶だ。当然入れるわけもない。彼女はとくに怒るわけでもなく「6人は無理ですねえ」と、普通にお断りする。

「そうですか……」と若い客は引き下がったのだが、そのときすぐには戸を閉めず、ほんの少しジロリと店内を観察したことが、ぼくは気になった。ははーん。ネットで魔女の評判(うわさ)を見て来た野次馬だな。

それから5分も経過した頃だろうか。また入り口の戸が開いた。こんどは別の若い客が顔を覗かせている。「3人、入れますか?」と言う。その瞬間、対応する彼女の顔が険しくなった。ぼくの位置からは見えなかったが、顔を覗かせた奴の背後に、さっき「6人、入れますか?」と聞いた奴がいたようなのだ。

そして、その瞬間、店の外でピカリとカメラのフラッシュが光った。店内の彼女が一瞬にして魔女に豹変する。

「写真は撮るなー!」

そう叫ぶと、カウンターを出て、店を飛び出し、逃げていく野次馬の連中を追いかけていく。もう、店内で飲んでるぼくらは大爆笑。知らぬ同士がひとつになれた瞬間だった。

南千住のO坪屋、このところご無沙汰しているが、魔女はお元気だろうか。
※画像はイメージです。

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