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大学生になった時に背伸びして読んだ本

大学に入学したとき、ある種の自由を得た。これまでは決められた授業を受けるが、大学に進んでしまえば自分の好きな授業を選択できる自由が生まれる。必修もあるが、それを見越して入学する訳であり、幸いなことに先生にも恵まれた。
岩手県から上京し、好奇心を原動力に東京各所を巡っている中で神保町と出会った。廉価に本を買えるだけでなく、前に読んでいた人間のメモなども楽しんだ。一般的な本屋よりは学術的な本に関しての機会も増えた。通学の乗り換え駅ということもあって、読書する習慣がより身についた。

少しイキったのだろう。ネット上で「哲学書初心者へのおすすめ」的なものを見つけて「大学生だし」という無根拠な理由から、哲学書に触れてみた。そこにたまたま紹介があったのがホセ・オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』である。神保町でその本を捜索し、なんとか購入して読みはじめた。
(岩波版が出版されたのは今から1年ほど前か)

はじめの5ページからして痛烈な大衆批判が展開されるわけだが、自分にとって久しぶりに「叱られる」という感覚になった。父は小学2年生の時から別居で、中学 2年生の夏に亡くなった。あまり父から叱られるという経験がなかった。母も厳しかったが、高校に進んでからは「自身で頑張っていきましょう」というスタンスだったように思う。なので、のらりくらりと自分の感覚で、特に考えずに生きてきた。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出している全ての人のことである。
『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫) 一、充満の事実より

読み始めた7ページ目にこの文章が待ち構えていた。この痛烈な大衆の定義に、自身の姿を重ねずにはいられなかった。これまでに特別、自己を表現したこともなかったし、周りの人間と同じ行動を取ることで安心感を得ていたことは間違いない。「叱られた」という表現が正しいのかは今でも怪しいところではあるが、当時の自分はそういう受け取り方をしたらしい。

大衆の批判として、時代水準の高さも指摘している。私たちが使用しているスマートフォンや、輸送網等々のインフラなども先人たちからの恩恵を受けている。常に「当たり前」が更新され続ける社会になった。生活水準が1秒1秒の中で更新され、常に歴史上最高水準に立っている。
ワンクリックで都心であれば次の日にAmazonの注文商品が届いて当たり前、電車が5分間隔で駅に到着して当たり前、と思うようになっている。その当たり前の背景には、莫大な功労が潜んでおり、自分にはわかり得ない。他者の努力が生み出したもののお陰で、生活に満足を覚える。

現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手にかまわず押しつけることにある。
『大衆の反逆』(岩波文庫) 1 密集の事実

「みんなもそうやっているよ」という使い方に待ったがかかる。自分もたまに、そのまんまではないけど使ってしまう。「みんな」の範囲はどこからどこまで?というのもある。他にも「一般的には〜」という使い方も、割と使いがちになる。一般という社会的実体はなんぞや、ということになる。もちろん、使う側・使われる側には情報非対称性があるからだろうけど、自分が使いそうになった時には説明ができるようになっておきたい。
また、この「みんな」論法は個人・他者の個性を壊しかねない。最近は徐々に聞かなくなってきたが「みんなこうなんだから、こうしようね」というアレ。集団での調和が求められる場においては用いられるかもしれない。
幼い時の「みんなゲーム持ってるから欲しい」というのも、今思えば親に対して大衆の権利を主張していたに違いない。あの時に、もし「少し立派な画材が欲しい」等の主張をしていたら人生が違っていたかもしれない。

大衆から脱却するヒント、永遠のテーマとして追いかけるのはいい姿勢かもしれない。


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