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第5話 [シオ]呼吸/境界/破壊 - 禍後の楽園から

カショウは僕を連れ出した。晴れた美しい夕暮れだった。雲ひとつない空は、オレンジから濃紺へグラデーションをなし、ところどころに大粒の星をレイアウトしていた。

この世界では、どの街も自然と人工物が調和した美しい光景が見られるが、このカショウの住むMIRAH-0041も例外ではなかった。

僕たちは“シロ”に向かって歩いた。カショウによると、シロとは、古い城の周りにある盛り場のことらしい。

砂や雨のない日、また、ウイルスの脅威のない時期には、人々はいつもここに集う。

坂を登り、堀に架かった橋を渡ると石段がある。それを少し上ると、開け放たれた大きな門が見えてきた。

「ビアガーデンと夏祭りとフードコートを足して3で割ったような場所だな、ここは」
カショウがつぶやくが、僕には意味がわからない。

門の向こうには、オレンジの光のきらびやかな光景が広がっている。
門をくぐると、そこはとても広く、木々や芝生が美しい。もちろん、すぐ近くに城も見える。

様々な料理を提供する広い売店の周りに、ゆったりと間隔を保ってテーブルが配置されている。

そこここから談笑が聞こえ、子どもたちはテーブルとテーブルの間を走り回っている。

飲み物と軽食を調達し、僕たちもそのテーブルのひとつに着いた。

「まさかこんな世の中になるとはなぁ」
周囲の光景を眺め、膝をさすりながら、またカショウがごちる。

「オレらの若い頃は、朝から晩までぎっちり働かされて、それでもこんなところで飲む余裕はなかった」
ジョッキを持ち上げ、グビグビと三口ほど流し込む。

「それが、好きなときに好きなだけ飲める時代が来るとはなぁ」
カショウはしみじみとジョッキを見つめている。

「ところがだ。好きなだけ、しかも金がなくても飲めるというのに、なぜかあの頃のような渇望感がないんだよ、不思議なことに」

カショウはギラギラした目で僕を見ながら、熱心に語りかけるが、アルコールへの渇望感については、僕はまったくわからなかった。とにかく黙って頷くことにした。

「それでも最初の一杯は最高だ!まあ、徹夜明けの缶ビールほどじゃないけどな」
ガハハと豪快に笑って、カショウは残りを飲み干した。

一瞬の沈黙を、周囲の喧騒が埋める。

「なんでおれがカショウだとわかった?」
彼は真顔でそう言った。

「えっ……と、サタさんの……」
唐突な質問にうろたえつつ、僕は正直に話した。

結論からいうと、彼の妻、サタさんが公開している情報が僕をここに導いた。オンライン上に散らばった情報の断片、それをかき集め、つなぎ合わせると、それはこの街、この老いた男を指し示した。

アカウント情報、断片的な個人情報を含むテキスト、位置情報付きの画像……。サタさんは過去に、複数のハンドルネームで、別人格として情報を公開していた。その中に、「カショウ」に関連付く情報がいくつかあった。

「あの女はそういうところがずさんなんだ。どこで何を更新したかちゃんと整理しとけよとあれほど……」

僕は拾いもののサーチエンジンを使って、頭脳都市とSARS-CoV-2について調べていた。そのサーチエンジンは、古い情報ほど上位に表示される。こんなものを使っているのはきっと僕くらいだろう。そもそもこの世界では、サーチエンジンを使うことはほとんどない。使うとすれば、何か学術的なことに没頭してる人くらいだろう。それ以外は、必要な情報は向こうからやってくるし、何か特定の情報に執着する人間はほとんどいない。

「それで、オレがあのプロジェクトに関わっていたことを知ったと?」

僕は頷いた。

僕はたくさんの質問リストを持ってここへ来た。SARS-CoV-2の特性、移行(ジャンプ)の法則、2020という時代……。

しかし最優先なのは、ミラーリング都市計画の設計や仕様だ。頭脳都市にたどり着くには、この国の地理的な構造について知らなければならない。

いくつか質問を投げてみる。しかし、彼は思うように答えてくれない。自分の興味のあることしか話さない。ミラーリング都市計画について訊ねると、あきらかに面倒くさそうな態度を見せ、3杯目のアルコールを求めて席を立った。

質問リストをにらむ僕の背景で、人々は笑っている。完全に空は暮れたが、子どもたちは依然としてはしゃぎまわっている。

「あの頃はコロナっつって、みんな大騒ぎしたもんだよ」
ジョッキを携えて戻ってきたカショウは、ニコニコしながら気まぐれに話を始めた。

「当初は、新型肺炎と呼ばれていたんですよね」

「最初はな」

突然真顔になり、カショウは顎をなで、くうを見つめている。その先には、妙に大粒の星がぽつんと、しかし煌々と輝いている。

「あれは過去のどんなウイルスとも違った。日が経つにつれ、世界中からさまざまな症例が報告された。感染してもほとんどが軽症で済むと楽観視していたやつらも、その情報のバリエーションの多さに、じわじわ焦っていった」

カショウがこのまま話し続けてくれるよう、僕は細心の注意を払って相づちを打つ。

「肺炎から始まったのも、あれも象徴的だった。肺っていうのは呼吸だ。生き物はたいてい呼吸をする」

僕は細心の注意を払って相づちを打つ。

「呼吸を壊すというのは、生物と非生物の境界を壊すことなんだ。生きてるんだか生きてないんだかわからないウイルスのやつらが、そういう挑発的なことをやってきやがった」

僕は細心の注意を払って相づちを打つ。

「シオ、観測問題って聞いたことあるか?」

僕はじりっとテーブルへ身を乗り出す。

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