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第2話 内宇宙の旅 - 禍後の楽園から

ある老人は、かつて駐車場と呼ばれた遺跡の車止めの上にしゃがみ、じっとしている。

きっとあなたたちの目には、暇そうに見えるだろう。

しかし彼は、自分の中の無限の内宇宙を旅し、その感覚に耽っている。

老人に限らず、この世界ではみな同じようなことをやっている。瞑想のようなものと言えばイメージしやすいかもしれない。

その内宇宙から持ち帰ったものを、絵にするもの、文章にするもの、数式にするもの、楽譜に落とすもの(と言ってももう楽譜は存在せず、コンピュータに打ち込むだけだけど)、いろいろだ。

多くの人間が学者であり芸術家だ。つねに新しいものが生まれたり、過去の技術が再発見、再構築される。

その中で、汎用性があり、社会のさらなる最適化に貢献すると認められたものは、政府によって吸い上げられ、取り込まれる。

さっきのマスクもそうだ。
誰かのアイデアによってより機能的に、汎用的にアレンジされたものは政府に採用され、次の配給ではその仕様のマスクが配られることになる。

だけど、誰一人として、政府に認められることを目的としているものはいない。

純粋に、自分の中から湧き出る衝動に従って、それらを生み出しているに過ぎない。誰の承認も求めていない。

政府に採用されようと、人気の商品になろうと、その他多くのアイデアより優れているとジャッジされることもない。どれも同じくクリエイティブだということを、ここの人たちは知っている。

みながみな、自分の喜びのためだけに、生み出し続けることを、認めあっている。

人々がそんなふうに認めあえるのは、生きるためにお金や経済を意識する必要がなくなったのが主な理由じゃないかと、僕は思っている。

あなたたちの頃まではまだ、食べるために働き、社会を豊かにするために、必然的に競争というものが生じていた。

しかし今は違う。

すべての生活物資は過不足なく、政府から配給されることになっているから。コンピュータ(あなたたちがAIと呼んでいるようなもの)が適切に管理しているため、人々はモノに対する不足感を感じることもない。

ただ、時間はいくらあっても足りない。内宇宙への旅は無限だから。

ここの人たちに、1日数時間かけて通勤し、誰かのために労働することが喜びだと自分に言い聞かせ、望まない労働を強いられるといったことの意義を問うたら、

「なぜそんなムダなことを?」

そう返ってくるだろう。

内宇宙の旅は、必ず社会に還元される。もちろん、個人によるほとんどの創造物は政府に採用されることはない。だけど、その他大勢が存在しなければ、一握りの創造物も存在しない。その意味で全ては等価だと、人々は直感的に知っている。

人々は充実し、社会は合理化されている。
個の充実と、全体の合理性は両立している、というより、この両者どちらかが欠けたら、もう一方も成立しない。この理屈が、これまでの説明で伝わってるといいのだけど。

これが僕たちの住む世界。

もしかしたら、すでにピンときている人もいるかもだけど、かつてのように経済を回す必要がなくなった今、企業はほとんど存在しない。あるのは国と個人だけ。

かつてあった商業施設や、オフィスが集合していた巨大なビルは、今は廃墟となっている。

解体するにも手間とコストがもったいないので、危険がない限りはそのままになっている。今は野生動物と子どもたちの格好の遊び場だ。

過剰な労働がないため、過剰なストレスが発生することもない。だから、過剰な娯楽も必要なくなった。

娯楽が減ったときいて、つまらないと思う人もいるかもしれない。

念のため言っておくと、酒もドラッグも、この世界にもあるにはある。だけど生存や生活を維持するための負荷がゼロに近いこの社会では、そこに起因するストレスも限りなくゼロに近い。だから、酒やドラッグに依存するものはまずいない。

過剰に中毒性を濃縮したような、人々の原始的な感情や欲望を刺激するような娯楽はずいぶん減った。あるがままで生きることを咎められることのない社会では、中毒性の高い娯楽で心の穴埋めをする必要がない。近所の広場の緑の中で、通りすがりの若者と老いた者が、笑顔で酒を酌み交わす。そんなささやかな娯楽で、僕たちは十分満たされる。

さてそんな中、例外的な場所がある。頭脳都市。

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