映画感想 The Boy and the Heron 

 新宿東口で献血をした休憩を兼ねて、バルト9で、宮﨑駿監督の「君たちはどう生きるのか」を観てきた。公開当初に一回観ているので、これで二回観たことになる。
 初回は頭では凄い映画だとわかるけど心がそれほど動かなかった。が、二回目はとても感動した。主人公の真人がこれから暮す疎開先の部屋にとおされて疲れて眠りくずれる辺りから涙が止まらなかった。そこで、少し感想を書き留めておこうと思う。
 ストーリーは、太平洋戦争の最中の日本を舞台にして、母を火事で失った少年(真人)が父と共に疎開先にやって来るところから始まる。軍需工場を営む父は相当のお金持ちであり、母方は没落しつつあるものの地元の名家で、疎開先であるその実家もかなりの敷地を持つ邸宅である。そこで真人は、母の妹である夏子に出会う。夏子は父の再婚相手であり、その腹には父との子が身籠られていた。「戦争が始めって三年経ち母は死んだ。そして、戦争から四年目、父は母の妹である夏子さんと再婚した」。屋敷には、妖精のような下仕えの老婆たちや爺、もう動けなくなった病身の使用人などが暗がりのなかにいて、お婆ちゃんたちのコミカルな明るさと対照的に死の匂いが至る所に立ち込めている。それはまるで、凋落の令和日本の暗喩だ。
 さて、物語はその後、少年とアオサギとの異界冒険譚へと展開していくのだが、ストーリーを長々と追うことは、むしろ感動を削ぐのでここで留めておく。私自身が一回目の観覧でどうも感動できなかった原因もストーリーを追いすぎたことにあると考えているからだ。この映画はまさに観る態度が問われる。Don’t think, feel! ただ身を映像に委ねるだけで得られるものは遥かに多い。冒頭の火事のシーンのアニメーションの凄さは誰しも認めるところだが、最後まで絵本を捲るような気分で映像を眺めていると、心が浮き立つような感覚がじわじわと湧いてくる。
 感動の主軸は、真人が夏子を受け入れるまでの過程にある。しかし、継子と継母の絆の物語などと短絡にまとめることを拒むような脚本の丁寧な描き込みがある。それがまた素晴らしい。真人は、最初からいい子なのだ。安っぽいドラマ仕立てのわかりやすい葛藤なんかではない。だから、安っぽく、真人の心の成長物語(ビルドゥングスロマン)などとまとめることも映画は拒む。真人は、最初からいい子で、父や継母を受け入れる所作はとる。でも、継母の夏子に自分から話しかけるのは、映画開始から相当時間が経って、部屋に入ってきたアオサギを追い出すために固い窓を閉めようとするときが初めてなのだ。そして、夏子が失踪すると誰に言われたでもなく、自分から率先して探しに出かける。真人は最初からいい子なのだ。いい子というのは、皮肉でいい子なのではなく、本当にいい子なのである。しかも、疎開先の田舎の毬栗頭のガキどもに比べたら、見てくれもかわいらしい。木村拓哉の演じる父は成金の中年男だし、菅田将暉のアオサギに至っては中身はオッサンなのだ。ルッキズムという意味ではなく、真人と他のキャラクターの間に明確な造形の線を引いて、観客の視線を真人に中心を据えるように誘導しているのだ。この映画ではジブリ作品にしては造形の可愛いキャラは少ないだが、唯一の造形の美しいキャラクターが主人公の真人である。
 そうすると、この物語は真人を中心にした真人の心象世界を描いていると言える。アオサギと出かけていく、大叔父の立てた塔の中は、真人の心そのものであり、その墓室のような産屋の奥で、新しい母を受け入れられずにいた自分の残酷な在り方とそれでも誰かを慕いたいという痛切な思いに出会うのだ。
 映画はその落着に向けて見事に観客を誘導している。その手腕の一つ一つを分析できるほど、私はアニメに詳しくないので、それはしないが、そのための脚本の大きな構造としての、虚構と現実との対比という点について一言だけ述べておきたい。
 われわれは虚構と現実とをするどく区分して捉えようとする。まるで、夢と現実とのように。夢で起きたことは現実では起きない。この映画で、真人の前に現われる現象のどれが虚構でどれが現実なのだろうか。ワラワラを食うペリカンたち、人口爆発に悩むインコたち、それらを塔の中に持ち込んだという大叔父。塔が真人の心の世界なら、なぜ彼らは現実との接点を持つのか。そして、虚構と現実と往還するアオサギ。
 実は、虚構なるものを反省して考えてみれば、虚構の二重性に気づくはずだ。作り物としての現実とは別のお話という意味での虚構。それともう一つ、この現実に取り囲まれた、現実と二重写しになっている虚構。どういう意味かといえば、話は簡単で、虚構を思うとき、思うわれわれ自身は現実に身を置いている。たとえば映画体験がまさにそれで、映画という虚構体験に没入しつつ、われわれの身は映画館という現実にある。したがって、物語世界で真人の心がそのまま外の現実世界と地続きになっているのだ。そして、観客は、絵本のようなおとぎ話を映画体験として見せられるのだが、それはそのまま、観客の心に現実に刻印されるのである。映画をくぐり明日の生き方が少し変わる。Fecemi la divina potestate.
 最後にどうしても付言しておきたいのが、米津玄師の「地球儀」である。一回目に観たときには全く気づかなかったが、エンディングのこの歌が物語の要約、或いは良い振り返りになっている。「風を受け走り出す 瓦礫を越えていく この道の行く先に 誰かが待っている」。バルト9でも、エンドロール時で退出する若い男性客が多かったが、この主題歌は必聴と思われる。私は「地球儀」を聴くにつれ、映画の余韻が心地よく胸に迫った。米津玄師の映画を読む力とその表現力に脱帽だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?