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全体性と懐疑 le doute et totalité

  懐疑は大きく分けて二つあると思われる。全体性(totalité)にかんするものと、そうでないものである。全体性にまつわる懐疑(le doute de totalité)とは何か? 例えば、この世界が夢ではないかと疑う懐疑、或いは、言語の規則性を疑う懐疑はそのような懐疑である。一方で、知覚についての錯覚論法であるとか、心についての他我問題と謂い慣わされているものは、部分(partie)にむけた懐疑である。
 あらかじめ結論を仄めかせば、懐疑が全体性に及んでいないとは、現にいまここに実存するわれわれから離れている(absenter)ということである。したがって、全体性にまつわる懐疑とは、懐疑それ自体が成り立つかどうかということが問題なのではなく、むしろ、懐疑する対象について深く考えること、すなわち、言語や世界や規範といったわれわれの身分や成り立ちを問うことである。そのような全体性にまつわる懐疑の輪郭を描くことで、最終的には、その観点からウィトゲンシュタインの私的言語にまつわる寓話の意義を再考してみたい。
 まず、デカルトの『省察』を読んでいこう。デカルトが活躍した時代は、三十年戦争の直中であり、科学革命の時代であった。1619年冬、志願士官として従軍していたデカルトはノイトブルグの炉部屋にあった。そして、子供時代に自分が得た経験と教育の中に「混ざりもの」があるとしたら、それを取り除き、もう一度「堅固な基礎」を理性の力によって築こうとしたのであった。この1619年の炉部屋での体験を基に、デカルトは著作をものしていく。1637年には『方法叙説』、1641年には『省察』が刊行される。

この懐疑がすべての予断からわれわれを解放していくれて、精神を感覚から引き離すために、いとも容易な途を整備してくれる。

 よく知られるように、デカルトの懐疑は、錯誤、狂気、夢と順々に進んでいく。デカルトは、まずは、「これまで別けても真なるものとして私が認容れてきているもの」はどれも感覚を通してであったが、それら感覚は懐疑を差し挟み得るとして、一度は退けるのである。しかし、懐疑されない感覚もあるのではないかとデカルトは述べる。

大多数の、同じく感覚から汲まれはするものの、それについては疑われることの全くできないものが、あるのであって、たとえば、現に私がここにいること、炉辺に坐っていること、冬着を身につけていること、この紙を手に握っていること、およびこれに類することのごときがそれである。

 ここでわれわれとしては、この感覚についての錯誤の懐疑と次に出てくる狂気の懐疑を比較することで、全体性にまつわる懐疑(le doute de totalité)の実相を納得したい。たしかに、引用箇所は、現代哲学の観点からすれば、ウィトゲンシュタインの世界像との異同や、「これに類すること」にまで錯覚論法を差し挟めないのかなど、気になる論点がないわけではないが、それらの論点はひとまず措いてここでは論じない。
 ここでの論点は、錯誤の懐疑が、懐疑しうる感覚とそうでない感覚を分けている点である。つまり、錯誤の懐疑が、われわれの目下の関心である全体性にまつわる懐疑とは別ものであるということである。ただし、間違っても全体性(totalité)は〈すべての感覚〉といった全称性のことではない。デカルトの懐疑にしても、1619年の冬に起こった固有の感覚ではなく感覚一般を扱っているのだ。むしろ、懐疑の場面で懐疑の対象となる感覚と懐疑の対象から外さざるを得ない感覚の二分法がつきまとうということこそが重要なのだ。では、全体性とは何か。『省察』の続く言葉を先の引用と比較することで、そのことを考察したい。

誰かしら気のおかしくなった者に、擬して考えようというのでないとするならば、しかしそうした人びとは、正気を失った者なのであって、彼らに劣らず私自身が、彼らのそういう例に私が倣うとしたならば、心神喪失者と思われることだろう。

 デカルトはここで自らが「正気を失った者」、すなわち狂気に陥った者である可能性について思い巡らしている。なぜそのように狂気の可能性を考えているかと言えば、先の感覚への懐疑との関連からである。すなわち、先の引用で、私が「冬着を身につけていること」や「私がいまここにいること」などは、懐疑をうけつけないとして挙げられていた。だが、もし狂気にとらわれているとしたら、たとえ「冬着を身につけている」としても、「緋衣をまとっている」とか「全身これ南瓜型の壺であるとか、ガラスで造られている」とかと思い込んでしまうのではないか。したがって、狂気の可能性、つまり、自分の正気を懐疑することには、懐疑をうけつけない事柄がない。このようにあらゆる事柄を懐疑に吞み込んでいってしまう点が、狂気の懐疑は先の錯誤の懐疑とは性質が異なる点である。
またも、現代哲学の観点を持ち出せは、『省察』の狂気についての記述には、フーコーとデリダの論争がある。この論争は「理性」をめぐる幅広い観点から捉えられるのが通常であろう。「制度の解体」とそれを語る「理性の言語」についての論争だとされる(小泉義之『兵士デカルト』pp.104‐107)。しかし、われわれが『省察』で狂気を読む意図は、全体性(totalité)についての考察のためである。したがって、フーコーとデリダとの論争についても、その観点からのみ読むことこそ、われわれが哲学をする道であろう。1972年に刊行されたフーコーの博士論文である『狂気の歴史』から引用しよう。

懐疑の調和的構造のなかには、一方の狂気と他方の夢および錯誤とのあいだに根本的な不均衡が存在する。(邦訳p.66)

フーコーは、われわれと異なり、狂気の懐疑を他の二つと分けるのである。なぜなら、第一に『省察』の叙述がそうなっているからだ。『省察』では、錯誤や夢に、いま、ここで覚醒している私を対置することによって解決を与えるが、狂気はそもそも解決を与えられる以前に、詳述されることもないので、通り過ぎただけに留まっているとさえ言える。そして、フーコーが狂気を他の懐疑と分けるもう一つの理由は、懐疑する主体の問題である。

「狂気、それは排除された言語活動である。」(p.584)
 

 フーコーによれば、狂気はわれわれの言語から排除されている。懐疑は当然にして、われわれが言語によって行う言語活動である。したがって、狂気の中にあってはそもそも懐疑を行い得ないというわけだ。

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