可能世界と言語(最終回)

様相についてのクリプキとルイスの二つの説の対比は、デカルトとライプニッツの二つの説が対比されるのとちょうど重なり合う論点を持つのだ。その論点は、可能的対象の身分をどう捉えるかということだ。つまり、可能世界の自存性を認めるかどうかという論点である。つぎの命題で考えてみよう。

  (1)夏目漱石が『こころ』を書かないこともありえた。

このとき、nを固有名詞「夏目漱石」が意味する対象、kを『こころ』が意味する対象をそれぞれ表す定項とおき、Sを「~が…を書く」という二項述語とおくと、命題(1)はクリプキの説にしたがって次の論理式(2)で表せる。

  (2)◇ExEw(x=n→~xSk)  ただし、Eは存在量化子をあらわしている。

クリプキは、現実世界の個体を示す指示詞によって、可能世界にあって、その個体と同一の個体を指示できると考えた。つまり、指示詞によって、現実世界の個体と可能世界の個体とが同一であると約束されるのであった。だから、論理式に出てくる「夏目漱石」に対応する記号は定項で書かれるのだ。

しかし、ルイスの説に従うと命題(1)は別の論理式になる。ちなみに、ルイスは、〈世界に住むこと〉を表す特別な述語をEと書くが、ここでは、それを★であらわす。

  (3)◇ExEw((x★w&~(x=n)&Nx)→~xSk)

ここでは、xとnとは同じ個体ではない。したがって、類似性を表す記号を導入しなくてはならない。xがnと似ているということは、xが〈現実世界の夏目漱石に似ている〉という性質を持つということだろう。この性質を論理式(3)では述語Nであらわしている。

論理式(2)と論理式(3)の違いは、夏目漱石を定項であらわすか、述語であらわすかという違いだ。その違いを生んでいるのは、可能世界についてのクリプキとルイスの二人にある見解の相違だ。しかし、さらにその原因を探れば、突きつめるところ、「現実」というものの二重の意味のうち、どちらを強くとるかということから生まれる相違なのである。最後にそのことを論じて稿を閉じよう。

「現実」には、〈現実である〉という意味と〈現実がある〉という二つの意味がある。一般に、〈~である〉の方を本質と呼び、〈~がある〉の方を実存と呼ぶ。机の上の赤い果物は、「りんごである」。りんごであるのは、何もいま机の上に置かれたその個体以外にもいくらでもあり、いくらでもあるそれらも、やはり「りんごである」と言えよう。りんごという本質を供えたものは他にもあるわけだ。だが、いま、机の上に「りんごがある」という実存は、その個体のことを言っているのだ。この本質と実存という話を「現実」に当てはめればつぎのようになる。現実に夏目漱石であるものは、いまある現実世界以外でもそう言えるものはある。可能性はもちろん現実性でないが、そういう可能性があることは現実なのだ。すると、可能世界の個体は、〈夏目漱石であるという現実〉を思考した対象といえる。そういう本質を供えたものは、他の可能世界にいくらでもいる。しかし、現実に現実世界に実存したのは、夏目漱石ただ一人だ。現実に夏目漱石がいたのだ。つまり、現実の本質を強くとり、可能性という現実をモデル化したのがルイスの説である。また、現実の実存を強くとり、現実のもの以外ないのだから、可能世界のものも、現実と同一だとするのがクリプキなのである。哲学史では、クリプキを本質主義というのが普通の紹介であるが、ここでは逆になって、ルイスが本質主義で、クリプキが実存主義となる。

そして、「現実」の二つの意味を別の言い方でも説明するために、本質と実存の対比をライプニッツとデカルトにも当てはめてみよう。

デカルトは、たとえこの現実世界での必然性であっても、この様ではないことが可能なのだと考えた。先にわれわれは、デカルトの見解を論理式を使い、□P→◇□Pとあらわした。いまや、現実という二つの意味との関係でそのことを確認できる。現実を表す記号を@としよう。「現実世界で必然的にPだというなら、Pが必然的だという現実がある」と言えるだろう。

  (4)□P→@□P

ところで、この現実世界も可能世界の一つなのだから、@=◇は認められるよう。すると、論理式(4)はつぎの論理式(5)となる。

  (5)□P→◇□P

この論理式(5)は、現実があるという、実存の意味を強くとって導出されているのがわかる。現実の取り方において、デカルトもクリプキと同じ実存主義だったのだ。
対して、ライプニッツは、ルイスと同じ本質主義になる。なぜなら、ライプニッツもまた、思考対象としての可能世界がいくつも自存しているのを認めたからだ。そのように、自存してあるそれぞれの可能世界は、それぞれに現実である。すると、□Pについては以下のようになる。まず、□Pが現実であるのだから、論理式(4)が成り立つ。ところで、すべての可能世界は、そういう可能性の総態が現実であるのだ。したがって、つぎの論理式(6)が言える。

  (6)@□P→Aw□P Aは全称量化子

また、様相論理でも推移律が成り立つと仮定して、論理式(4)に論理式(6)を代入する。

  (7)□P→Aw□P

そして、定義から□はAwなのだから、つぎの論理式(8)が帰結する。

 (8)□P→□□P

以上のことから、はじめに紹介したデカルトとライプニッツにおける可能世界についての見解の相違も、現実における二つの意味の違いであると示せた。われわれ人間は、そのようにただの一つの現実ではない重層的な現実を生きているのであり、その現実に応じてまた可能性も重層的に広がっているのだ。

(了)

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