霊魂とは何か Qu'est-ce que l'ame ?

 さて、われわれは霊魂が像かどうかということを考えていたのであった。「像(la comme)」とは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に出てくる言葉だ。だがすると、人は『論考』では形而上学的なものが否定されていたのではないかと疑問を発したくなるだろう。

「4.003 哲学的なことがらについて書かれてた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能なのであり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。」

 もちろん、われわれはここで「霊魂」をナンセンスであるとして、表題の問いを退けることができよう。しかし、その行き方は些か早すぎる。なぜなら、ウィトゲンシュタインの言う「ナンセンス non‐sens」はこれまたそれだけで主題としうるような難解な概念だからだ。たとえば、『論考』がナンスセスの例として挙げる命題のうち二つばかりを取り出して、比べるだけでもその難解さは伝わるというものだ。「2+2は三時には4に等しい」(4.1271)と「善と美はおおむね同一であるのかといった問い」(4.003)がともにナンセンスだと言われるが、そもそもこれらがどのように共通しているのかもわからない。(まあ、ナンセンスだからその共通点などわからないとも言える。)

 したがって、表題の問い「Qu'est-ce que l'ame ?」にわれわれは否定的には応えない。では、その問いへのもう一つの道、すなわち肯定的に答える道をわれわれは採るのか。しかしまた、この道をすぐに突き進む行き方も些か早すぎるのだ。われわれは、霊魂という実体があるかどうかを問うているのではない。だから、冒頭で問いを「像であるのかどうか」と変奏させたが、われわれの思索はあくまで言語を基点にして進んでいくのだ。われわれの思索にはそれくらいしか手持ちの駒がない。もし、ここで言語による反省を抜きにして、霊魂があるのだと肯定的に答えてしまうならば、「霊魂」という「名 le nom」が指示する(bedeuten)ものは何かということが問題になってしまう。ここで、そんなものは無いからといって否定的な応えの道に戻ることもできるが、もう一つ信仰に委ねる道もあるだろう。われわれは、「ヒッグス粒子」や「電磁気力」について目でその実体を見て知っているわけではないが、科学的な知識という意味ではそれらについての命題を正当化された真なる信念かどうかを検討できるものとして信じている。神に照らして、それが善なるものかどうかを確信できるものとして霊魂という実体を信仰する道がわれわれには残されている。

 しかし、繰り返すが、われわれが考えたいのは、「霊魂は像として何であるのか?(Qu'est-ce qu l'ame comme la comme ?)」ということなのだ。いみじくも「霊魂」がわれわれの言語の中の名として存在するのであるのなら、われわれの言語の標準的な使用と同じく像として使われているのではないかという疑問である。

 ここで、考察のための一つのヒントとして、先ほど登場した科学的措定物と比較してみよう。「電子」は今では特別な顕微鏡で〈見る〉こともできるようになったが、「電子」が像であること(=意味があること)は、〈見る〉ことに支えられているわけではない。それは、物理学理論の整合性とわれわれの社会常識によって支えられている。私個人は物理学の知識は頭から抜けてしまったが、「電子」が物理学者の中で語られるときのその真理性は、社会常識として妥当であると信じているのだ。つまり、「電子」という像は、つぎの二つに整合性に支えられている。つまりは、物理学者集団の専門的な語りにおける整合性と、われわれが専門家集団にその検証を委ねた上での一般人の常識的な語りにおける整合性との二重の整合性に支えれれて、「電子」はわれわれの言語に位置を定めていると言える。したがって、何かが名として意味を持つには、その名が関わる他のものごととの連関の中に支えられる必要があると言えそうだ。

 この論点をウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で以下のように書いている。「2.15 像の要素が互いに特定の仕方で関係していることは、ものが互いに関係していることを表わしている。像の要素のこのような結合を構造と呼び、構造の可能性を像の写像形式と呼ぶ。」

 すると、「電子」の場合は、その要素が「陽子」や「中性子」といった他の要素と「互いに関係している」と言える。それに対して、「霊魂」はいわばわれわれの社会常識から浮いてしまっている単一の観念であるから、『論考』の言語論からしてナンセンスなものとして否定できると思われるかもしれない。いまどき、仕事に集中できない理由を「霊魂のパワーが弱まっている」ことに求める人は少ないし、もしいたとしても組織内で浮いてしまうだろう。

 しかし、もう一度、ゆっくり考えてみるなら、「電子」の場合の整合性が二重の整合性に支えられていたことから考えて、われわれの社会常識もそもそも幾つものの整合性をもつ緩やかな有機体であると考えうる。もっとわかりやすく例を挙げれば、教会の中では神学体系の中で「霊魂」は位置づけられ、門前町の信仰厚き信徒たちは純粋に日々の語りの中で「霊魂」という言葉を使う。つまり、われわれの社会常識は、近代科学という常識の一枚岩ではなく、信仰の常識やその他、風習・文化などの常識を幾つも緩やかに重ね持っている有機体なのだ。かくして、たとえ「霊魂」が現代科学の概念ではないからといって、その意味に関しては、科学で検証できないからとか、実体が確かめられないからという理由だけで棄却するのは気が早やすぎる。それが言いすぎだと感じる人も、われわれの言語の中に「霊魂」という概念が流通しているその事実は認めるだろう。

 つまり、この項の冒頭の問いに応えるなら、「霊魂」は像である可能性を残しているということなのだ。そして、その「霊魂」は何を写像しているか、それこそが問題なのである。

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