映画「アフターヤン」を観ての感想

  韓国生まれのアメリカ人映画監督コゴナダ氏による「アフターヤン」を日比谷まで自転車を飛ばして観てきた。「AIロボットが家族の一員として暮らす近未来。動かなくなったAIロボットが残した愛しい日々の記憶」とトレーラーには謳われている。この家族は茶葉の小売業を営む白人男性と外勤めをしている黒人女性のカップルを中心にして、中国人の養女と同じく中国人らしき人型ロボットであるヤンの四人から成る。この映画はたしかに家族の物語を描いているが、それは観る者に家族とは何かという問いを突きつけるような設定の映画である。夫婦はなかなか子どもが授からない。妻は何とか妊娠しようと夫に協力を求めトライするのだが、夫の方は煮え切らず消極的である。そこに迎え入れられた養女はあどけない就学児なのだが、夫婦の不仲も原因してか、父親嫌いになり始めている。そのようなギスギスと冷たくなりそうな三人の関係を潤滑油のようにつないでいるのがヤンなのである。そのヤンが或る日突然全く動かなくなってしまい、ヤンの修理のために方々へ出向き、男は右往左往し動揺する。
 ストーリーは、幾つかの視点から眺めることができると思われる。夫の視点からすれば、家族と知らず知らずに距離をとってしまい責任逃れの状態にあったヘタレが、ヤンとの思い出を回想することで失っていた情熱と愛情を感じ直す物語と見える。詰まりはもう一度家族に向き合う物語だ。妻の視点からすれば、自分が信じてきた平等で合理的な信条から抜け落ちていたものを発見する物語である。この妻の視点はなかなか今の社会状況を反映している。妻の言動はかなりリベラルなのだが、現在のリベラルが陥っているのと同じく余りに非人称的で余に正論すぎる。家事と仕事の分担、クローンやAIへの平等な態度、それらは誰に対しても当てはまる主張なのだが、実はそこに血の繋がった実の子がいなくては家族が崩壊するのではないかという我儘な不安が輻輳している。何が彼女をそこまで不安にさせるのか、その実体までは映画では描かれないが、観る者は彼女が不安に怯えながす涙によって自分が背負った履歴をそこに投影してすべてを了解できる。そして彼女の不安と共振するように夫の無能ぶりがあるのだ。彼女はしだいに身近な誰かを慈しむ思いが自分の中に確かにあったことに気づいていく。三つ目は養女の視点である。他の二つの視点も映画に奥行きを与えているが、同工異曲の作品は多い。三つ目の養女の視点こそがこの映画の真骨頂であろう。養女はヤンの故障を、はじめはおもちゃが壊れたかのように捉える。しかし、その把握は観客もそうであろう。「第二の子」と呼ばれるテクノ商店や無免許の修理士、テクノ展示館をヘタレ夫と共に経めぐる観客の関心は、さてはてこのSFにはどんな仕掛けがあるのかなといった、機械への関心、いわば修理の眼差しである。ところが、ヤンの記憶を映像として見せられたわれわれは深いところで態度の変更を迫られる。「私もいつかあなたが感じた思いを感じてみたいです」と話すヤン。「仮え終わりが無であってもそれを私は気にしません」と語るヤン。そして、本当の親がいないことを学校でなじられくじけそうな養女に林檎の接ぎ木を見せて、人には生まれも育ちもどちらも大切なのだと、自身はロボットながらも切々と諭すヤン。それらヤンとの記憶をヘタレ夫と妻が回想している同じ時間の流れを経ていくことで養女は動かなくなったヤンに対して、これは故障ではなく別れの時なのだとひしと感じ始めている。そう、このじんわりとした時間の流れはまさに喪の時間なのである。第三の視点とは、喪の時間の経験による人間の成長である。また、観客はそこに第一、第二の視点をより合わせたときに、同時に家族という共同体は喪によって、すなわち別れの悲しみを慰め合うことによって繋げられるのだと悟ることになるのだ。この映画が家族の物語であるというのは、単に描かれている対象が家族だということではなく、この映画が観客にある種の家族を構築し直すときの思索の手がかりを手渡しているからにほかならい。終盤、ヤンにまた会いたいという気持ちを共有した三人の関係が見事に修復されていく様子が自然に描かれているのは、映画的な説得力をまざまざと実感される映像美である。
 そして、喪の時間の共有による家族の再構築というストーリーに説得力を与えているのはヤンのキャラクター造形である。映画の冒頭のファミリーダンスで、ヤンを演じるジャスティン・H・ミン氏がキレのあるダンスを披露する場面はなかなかの長さだが重要なシーンだ。ここで観客はこの映画の主題が家族であることと同時に、ヤンの愛らしさ、その魅力に取り込まれるからだ。私はこのシーンを見ながら、もしかしたらこの映画はこの新人俳優を売り込むためのプロモーション映画なのではないかと疑いが兆したくらいだ。それくらい、このシーンでのヤンはどこかコミカルで可愛らしく、もはや従来のSF映画にありがちだった、人間かロボットかという二者択一の古い問題設定が、彼のキレキレのダンス一つで凌駕されていることが見せつけられる。ここには配役の妙もあるだろう。修理台に乗る裸のジャスティン・H・ミン氏演じるヤンはやわらかい皮膚にまとわれた青年の発達した体つきであり、その温みのある弾力感は若々しくもみずみずしい。観客はヤンが生き返ることを願わずにはいらない。そして、ヤンの人となりがどこまでも好感を持てる人物として描かれている点も見逃せない。そうでなくては観客は彼がいなくて寂しいとは思えないのだ。養女が無邪気に慕う姿と同様に観客もヤンに自然と好感を抱く。もしも、ヤンがどれだけ爽やかな好青年であろうがビジネスだけで人に接しているような人物であったなら、彼が故障して新品と取り換えればいいと観客は思ってしまう。もしも、ヤンに憎まれるような点が目立てば、観客は登場人物たちが何をそんなに必死に慌てふためいているのか訝しく、映画の終盤での家族の考察まで辿り着けないだろう。さて、この文章を書いている私自身は、死んで誰かに思われることなどあるだろうか。
 鑑賞直後の感想をまとめてみた。もう一つ、記憶の描き方についても考えたいところだが、それはこの映画の思考とズレるところもあるだろうから、今回はまずはここまで。ある種の家族の再構築という主題だと受けとってみての感想であった。今後、時間をおいて書き継いでいきたい。

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