6月に哲学を

 「哲学とは何か? Was ist die Philosophie ?」という問いがある。しかし、これは客観的な探求の問いにはならない。むしろ、これから自身の為す探求の方向性を表明し確かめるための己れ自身にとっての道標である。だから、この問いはもはや問いですらない。ウィトゲンシュタインもカントも、そしてフッサールもその著作で「哲学とは何か」を論じた。そのことで、自身の思索がそれ以前の似たもの(哲学)と如何に違うかを表明する必要があった。そうしなければ、読者にとってもさることながら、著者自身にとっても自身の思索が何であるかが不鮮明になって行ったであろう。
 だから、自身で哲学をして生きていこうとする者は、その都度、哲学とは何かを問わねばならない。そのとき、哲学にとっては、「哲学とは何か?」とは、「数学とは何か」や「心理学とは何か」といった学問領域を確定するための問いではない。また、「文学とは何か?」や「詩歌とは何か?」のように同業者と共有できるような問いでもない。それは、言うなれば「人生とは何か?」と問うことに似ている。
 しかし、あれこれ言ってみたところで、これらの言葉はイメージを弄んでいるにすぎないと謗られても致し方なかろう。なぜなら、私にとって哲学とはアーギュメントの提出に他ならないからだ。アーギュメント抜きで問いを羅列することは、私には遠くなってしまった。もしや、ミヒャエル=エンデがかつて何かの作品で、「ただ『海』とつぶやくこと。それだけで彼は満たされている。」と書いたように、問いをつぶやくだけで子どもらしい純粋な生が充足する時があったのかもしれない。私は、どこか遠いところに来てしまった。
 だから、私は、私のアーギュメントを出来る限り明確に提出しようとすることでしか、哲学について語ることができない。
  
 意識をはじまりにとってみようか。他の生命体が幾つもいる中で意識が一つある。声を聴き、ものを考え、手を動かし、何事かを為す意識がある。横にも似た生命体がいるが、この意識は、横の生命体を自分の意のままに動かせはしない。自分の意と呼んだ一つの意識がある。この意識とは何なのか。辺りを見回すと、幾つも似たものはありそうだが、どうも一つだけ特別なようである。
 ここで、独我論は明確に間違いだ。なぜなら、他にも意識があることは明らかだからだ。それを疑って他の意識があるのかどうかを問うことは、日常の世界観をあさましく掘り崩すこと以外のなにごとでもなかろう。
 もう少し、意識の周辺を彷徨ってみよう。犬には意識があるのだろうか。あるいは、紫陽花の花は開こうと意識して花をつけるのだろうか。風に舞うレジ袋には意識がない。人間には意識がある。どうも、人間は意識によって世界を捉え、しかも、世界の中には意識があるものと意識のないものがあるらしい。
 ここで、観念論は明確に間違いだ。なぜなら、犬や紫陽花は夢の中にあるわけではないのは明らかだからだ。それを疑って全てを観念に取り込んでしまうと、実在の位置が不当に失われることになろう。
 
 さて、現象学者たちは、意識の本質を超越論的主体と位置づけ、世界は根本的にそのような主体が超越論的に構成するのではないかと問うた。しかし、世界の全てを構成するとは何をすることだろうか。

 α〈主体が、世界を構成する〉

 このαのような形の議論は、カルナップや大森荘蔵によっても推進された。しかし、田島正樹がいみじくも書いているように、これらの構成に基づき意識を解明する試みは、パースペクティビズムと言える。そして、最後には、他の観点との実在を巡る闘争に明け暮れる結果となる。つまり、もともとあった実在世界の土俵の上に、観念的な妄想を繰り広げ主体性を争っているにすぎないというわけだ。

 β〈主体1が、世界を構成する〉+〈主体2が、世界を構成する〉

 つまり、αはβの形の難題を孕んでいる。

 しかし、現象学的思考は堂々と表明された間違いなのだろうか。われわれは後続世代であることをいいことに、現象学を謬説と謗ることが許されようか。

 世界の全てが現象学的な形をしているわけではない。しかし、意識についてのある本質的な部分は現象学的であろう。かつて、哲学者たちはそれを知覚に求めた。なぜなら、現象(ファイノメノン)の中心的な意味は現れであり、主体への現れとは知覚像だからだ。  
 すると、以下のようになる。
 
 α2〈主体が、世界を知覚する。〉

 このα2が世界構成の原点だと言えそうなわけだ。しかし、すぐに気づくようにα2はβ2へ行き詰まる。

 β2〈主体1が、世界を知覚する。〉+〈主体2が、世界を知覚する。〉

 かくして、知覚では意識の不思議に答えられない。しかし、私は、現象学の根本洞察には現代の分析哲学に希薄になり、しかも十分に生かせる重要性があると感じている。
 そこで、現象しているのは意味ではないかとわれわれは問いたい。なぜなら、他者の知覚はそれ自体で十分意味をもつが、他者の認識する意味はそれ自体ではなく、私が聴くことではじめて意味を持つからだ。そして、もう一度、意識の不思議に戻るなら、意識の不思議とは、世界の意味がそれとして意味づけられることに躓くことだ。つまり、なぜ言語を使用するものたちの中で、意味をありありと感じる者とそうでない者がいるのかということだ。意味を中心に据えることは、βの形の命題に差異をもたらす。
 
 β3《主体1が、意味をもつ世界》+〈主体2が、意味をもつ世界〉

なぜ、差異が生じるかといえば、主体1が主体2の意味づけを知るには自身による意味づけを要するからだ。もちろん、同じことは主体2にもあてはまる。だから、この議論は独我論ではない。また、議論は意味についてのものだから、世界の実在はまるっとそのままだという点でこの議論は観念論ではない。
 そして、ここでは主体性を巡る闘争は生じようもない。あるのは審級のみだ。なぜなら、意識の不思議な点はなぜだか世界を意味づけているのは、最終的には唯一の者に帰着すること、その唯一のものをわれわれの世界認識から省けないことにあるからだ。だから、意味を中心に据えたわれわれの議論は(独我論と区別して古い訳語を復活させれば)、唯我論と呼べる。

 さて、まだ始まったばかりだが、ひとまずは稿を閉じよう。ここまででも補足すべきことが山ほどあるからだ。そして、われわれの哲学が何でなく、何であるかの輪郭だけは十分描き得たであろうから。

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