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懐疑と規範についての二たつの考え

(アメリカの哲学者スタンリー・カベルの『道徳的完成主義』を読む記事の3回目です。)

 あれほど解かりあえていた人とひょんなことから話がまったく通じなくなってしまった経験というものを持っている方は少なくないのではないか。もしも、そのことで悩み苦しみ、その処方箋を求めているならば、それは哲学というよりもエリクソンの心理学にこそ求められよう。

 しかしでは、哲学は、とりわけ論証を重んじるその思索の態度は、人生に役に立たないかと言えば、それはその人次第なのだ。誰かに自身の問題の解決を委ねるのではなく、自身が抱えてしまった問題に自身で解決の方途を探ろうとする人(ヤスパースはそのような人物を指して、「哲学的人間」と呼んでいたが)であるならば、哲学は思索的な人生の糧となろう。

 そして、今まで論じてきた「懐疑と規範」についての問題に対しては、解かりあえなさという日常的な事例を取り上げることで、その問題を考えはじめる入口とすることができよう。なぜなら、われわれは、「ひょうんなことから話がまったく通じなくなってしまった」りするのだが、では、いままで自然で何の疑いも持たなかった状態、つまり、〈わけもなく話が通じていた〉状態とは、いったい何であったのかと驚くことになるからだ。

 なぜ、話が通じていたのかと問い直して、〈わけ〉を応えようとすれば、その応えとして、〈同じ言葉を話していたから〉という応答を思いつくのは、わりと自然な道行きではあるまいか。そして、〈同じ言葉とは、同じ言語規則に則って言葉を使用している〉ということに他ならないとも応えたくなる。

 19世紀のウィーンで生まれ育ち、戦後はイギリスのケンブリッジで活躍した哲学者ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、その死後に刊行された『哲学探究』という著作において、あるパラドクスを提出した。

「§201 我々のパラドクスは次のようなものであった。規則は行動の仕方をどのようにも決定できないだろう、というのもどのような行動の仕方も規則に一致させられるのだから。そして解答は次のようなものだった。もしすべてが規則に一致させられるなら、それに矛盾するようにもできる。従ってそこには一致も矛盾も存在しない。」

 足し算を習い覚えた子どもが、1000以上の数を2ずつ足すときに、「1004,1008,1012……」と書いてしまうという§185での、前回の記事で紹介した数列のパラドクスの話がこの規則のパラドクスの一事例にあたる。

 問題は規則のパラドクスをどのように取り扱うかということだ。クリプキという20世紀アメリカの哲学者はこのパラドクスに対して、ウィトゲンシュタインが懐疑的解決を提出したのだと解釈してみせる。それが書かれているのが、1982年に出版されて以来、哲学者たちを惹きつけてやまない『ウィトゲンシュタインのパラドクス』という著作である。

 今回は、その本の詳しい内容に入る前に、パラドクスを巡るクリプキとカベルの論点の違いを図式的に見ておきたい。なぜなら、その論点の違いを生む、「生徒・子ども」の立場と「教師・年長者」の立場の違いがそのまま、われわれの唯我論を巡る問題につながるからだ。

 クリプキの言う懐疑的解決を、『論理哲学論考』の7つめの命題を文字って私なりにまとめるなら、〈意味の懐疑は、語り得ないばかりか、示されることもない〉という議論に向かう。なぜなら、懐疑論の置き場所などわれわれの言語の中にはどこにもないのだから。

 それに対してカベルはある特殊な語り口で、〈意味の懐疑論は語れないかもしれないが、示すことはできる〉という議論へ向かう。

 このようなクリプキとカベルの二たりの違いを生んだ、意味の懐疑論をもう一度まとめてみよう。先のウィトゲンシュタインの規則のパラドクスも以下の〈意味の懐疑論〉を明示したパラドクスだと解釈できる。

 α:言語の意味は規範的である。

 β:ところが、言語の意味を一意的に決定するどんな規則も存在しない。

 γ:したがって、言語の意味の規範性はつねにすでに揺らいでいる。

 これらのα・β・γの形式にまとめられる懐疑論をクリプキの場合は、「クワス演算」という思考実験で鮮やかにその像を描いてみせたわけだ。そして、この懐疑論に対して、懐疑的解決が提示させる。

「即ち、もし問題の人がある概念に関し、ある一定の状況において、共同体の他の人々がそこにおいて行うであろう行動と一致しない行動をとるとすれば、その共同体は彼について、彼はその概念を把握している、とは言えないのである。」(『ウィトゲンシュタインのパラドクス』原書p.95,邦訳p.186)

 すなわち、βの仮定を受け入れることを峻拒する議論である。βはせいぜい「暫定的に(provisionally)」にしか描くことができる程度であり、正確には真なる命題とはなり得ないというわけである。

 しかし、カベルはこのようなクリプキの議論への違和感を表明する。

「これは、ウィトゲンシュタインが『探究』で行っている子供と教示についての描写に対する私の見方とは違っていると思う。」(『道徳的完成主義』邦訳p.175‐176)

 クリプキは、「教師・年長者」の立場で論述を進めている。われわれの規則と別の規則に従っているように見える人物(「規則違反者」と呼ぼう)に対して、上の引用で見たように「彼」と呼びかけている。

 この彼は、単に文章中での照応関係を示す指示代名詞に留まらない。われわれの唯我論に照らして考えるならば、規則違反者に対してどの人称で呼びかけるかは形而上学的な問題を孕んでいる。なぜなら、規範によって懐疑を回収するという「懐疑的解決」の戦略自体が、なぜ懐疑が生まれるのかということ、つまり、〈規範と懐疑の包み合い〉ということまで考え合わせない限り、本当の解決を見ないからだ。

「私にとって重大なのは、それが『探究』で達成されている私秘性も孤絶性も捉えていないという点である。」(カベル,同上p.177)

カベルは、「生徒・子ども」の立場で考えている。カベルは、ウィトゲンシュタインが描いた意味についてのパラドクスを読解するにあたり、規則違反者を私自身として読んでいるのだ。そして、このパラドクスがわれわれに示しているのは、「唯一無比なる存在に対する実質的な証明のように見える」(カベルp.179)と述べている。

次回は、なぜ、カベルにとって懐疑が重要な意義を持つのかを書いていく。

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