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戸森しるこ『理科準備室のビーナス』から考える「永遠の憧れと憧れの形 L'eternelle idole et une forme de desir

 誰かに憧れを持つという体験は、思春期にそれほど多くの人が経験するものなのだろうか? しかも、それが雑誌やネットの上に存在するアイドルや歴史や文学の中でしか知らない偉人などではなく、ごく身近の、それも学校の先生に。

 私自身の経験では、中学・高校の教師たちとは対立してきたので、この小説は異世界なのだが、先生に憧れるという体験を持っている人がいても可笑しくはないだろう。

 さて、主人公「結城瞳」は、「ちょっと変わった」と自分でも認める中学1年の少女。とはいえ、何がそんなに変わっているのか、自分は変わり者だと心情を吐露する場面はあるものの、具体的に変わり者だと決定づけるエピソードはない。ところで、物語は彼女がいじめにあって体育館でひどく足を怪我する場面から始まる。保健室に行った主人公はそこで、仕事をさぼってたまたま居合わせた理科教師「ヒトミ先生」を知る。

 ヒトミ先生は、仕事はさぼるし、生徒にあまりに本音を言ってしまうし(たとえば、「卒業生の中には忘れてしまった子もいるわ」)、隠れて学校でお菓子を食べているしで、主人公たちがこれまで知っていた「センセイ」のイメージとかけ離れていた。

 それでも、主人公はヒトミ先生に憧れていく。母親からは「このごろ恋でもしているの」と言われる始末だ。初恋が同性に対する思いであるとは。しかし、主人公は自分の思いを安易に「憧れ」と名づけてしまうことを否定するのだ。そこに、もう一人の人物、「正木くん」が登場する。正木くんもどうやらヒトミ先生に憧れているらしく、理科の授業中はずっと目でヒトミ先生を追っているのだ。つまり、主人公と正木くんはある意味ライバル関係にあるわけだ。しかも、正木くんは、親の関係でヒトミ先生とは中学に入る前からの知り合いだった。正木くんの方が一歩ヒトミ先生に近いようで主人公にはそのことが面白くない。

 物語はそんな三人の関係を主軸にして、他の生徒たち、そして主人公の瞳と母と、別れた父親との親子関係なども盛り込み、中学入学の春から珍しく雪が降った冬までの一年間を描いている。

 さて、考えてみたいのは、先ほども少し触れた自認の問題が一つと、もう一つは人への憧れとの別れの問題である。この二つが複雑に絡まっているのではないかというのがこの記事での方向性だ。

 主人公は、変わり者だと自認する。しかし、どこがどう変わっているかといえば、むしろ同級生たちと似た点も多く描かれている。顔がすこし可愛らしい点は南野さんに似ているし、サンタをかつて信じていたところは五十貝さんに似ている。そして、ヒトミ先生を巡っては正木くんに似ているのであって、主人公はむしろ平凡な中学生だと言える。

 ただし、自分の声は自分が一番よく聞こえる。いやいや、それはこの物語に限ったことではなく、われわれ人間は自分の声をいつも自分も聞いているという単純な事実のことだ。他者は離れて聞いていなかったとしても、自分だけは自分の声を受け取っている。そういうわれわれの生の形式(lebensforme)に関わる事実だ。それは聴覚の問題ではない。心の声という言葉があるが、われわれはいつも、自分が自分にとってのはじめての聴衆なのだ。

 そういう意味では、結城瞳という主人公の少女はとても特別な場所にいる。この小説は主人公を語り手に設定しているので、われわれ読者は結城瞳の心情世界から物語の舞台を眺めることになる。そうすると、結城瞳の視点は他の登場人物に比して、それこそ「変わった」視点になっているのだ。

 しかし、そのような物語構造に隠されて、作者の筆致は少女の思い込みの危うさを浮き上がらせているように思える。「変わり者」という自認は早合点の可能性はないのか。

 たとえば、主人公は正木くんに初めて会ったときに、その見た目から「気が弱そう」と思い込む。しかし、物語の叙述は、その早合点が間違いだということのエビデンスを提示しようとするかのごとく進んでいく。正木くんは、けんかもするし、行動力もある。そして、主人公にそっと本音を漏らすようなところもある、なかなかの男前なのだ。それでも、主人公は正木くんを「なんだかかわいいところもあるんだ」と思うに留まっている。

 そして、そのような「思い込み」の暴露は、実は、南野さんへ、五十貝さんへの、そして、自分自身の過去への思い込みの暴露として物語は展開していく。

 この物語のいい点は、私がぐだぐだ述べてしまった〈少女の思い込みの危うさの暴露〉などという野暮な言い回しは一言も使っていない点である。勝手に私がそう呼んで、たまたま物語がそれも許してくれているだけである。物語はむしろ、思春期のそれぞれの思いを丁寧に季節の中に描いて進む。

 しかし、もう少し、下手で野暮な文芸批評を続けるなら、この「思い込み」は自分たち中学生にだけでなく、「ヒトミ先生」へも向けられている可能性はある。そして、憧れとは(もちろん、先ほど述べたように主人公は、自分の感情をそんな手垢のついた言葉に丸めることを好まないが)、思い込みなのではないか。それを裏付けるように、ラストシーンの近くでは主人公がある光景を見つめながら、「ああ、そうだったのか」とつぶやく、なかなか感傷的な場面が用意されている。

 しかし、結城瞳の感情が、憧れることに憧れるものではいことに注意深く物語は言葉と出来事を重ねていく。むしろ、主人公は自分の感情に振り回させれいるといった印象である。そして、その感情が整理されたとき、つまり、思い込みが解かたとき、憧れは次の段階へ入るのだ。それが別れであると物語は示している。

 かくして、憧れと自認は、思春期の少女という形をかりて映し出せる、他者へ向けられてた心というものの二つの現われだと言える。本作はそのような、一歩間違えると全てがセンチメンタルに流れてしまいそうな題材をとてもさわやかな筆致で描き出して、読者に主人公たちとともに考えることを促すものになっている。


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