事実とわれわれの唯我論②

 事実について考えている。

 事実とは、たいてい知覚される外界についてのことだと思われがちである。しかし、近世哲学の懐疑的思考からまともに衝撃をうけた頭には、その常識的な見方は遠く離れた故郷のようであり、帰りたくともおいそれと帰りつくことがかなわないようである。

 「事実」、「実情」、「そのとおりであること」という語句は、われわれの言語のなかで、真なる命題として(いわば、正当化されるかどうかより以前の真なる命題として)使用されているのではなかろうか。外界といったときに、また、知覚によって認識される客観的なものといったときに、果たして、どこまでみなで一致した像を外界に得ることがわれわれにできていようか。

 例えば、伊藤亜紗の一連の仕事が教えるように、色の見えは、それこそ人によって違うのだ。(これは、色にまつわる言語や生活の連関の中で、他者との〈齟齬〉が見いだされ、十分に他者によって検知される事象であるから、分析哲学で話題にされる逆転スペクトルの反例などにはならない。)
 

 もしかすると、私は、きつい或いは強い意味合いで「事実」という語を考えているのかもしれない。しかし、まさに、そのようなものとしての事実がないならば、われわれは哲学の出発点を見失ってしまうのではなかろうか。たとえ、全てが哲学的懐疑の対象になるのだとしても、何かを疑うときには、別の何かはひとまず懐疑から外れていなくてはなるまい。そして、実は、そもそも懐疑から外れておらざるを得ないものがこの世にはあるのではないか、ここで考えたいのはそういう意味での事実である。(したがって、どこかで、ウィトゲンシュタインの確実性についての思考とつながるのかもしれない。しかし、それはまだ遠い先の話なのであろう。)
 

 私は、前回の記事にて、このような事実についての思考において、わたしの中心性を考えるという思考の方向に妥当性を見た。

 もう一度、トマス・ネーゲルを引用してみよう。

「わたしが世界に含まれているという事実を完全に受け入れることは、決して容易ではない。無中心の宇宙が、その限りない全時空のなかで、よりによってわたしを生みだしたこと、しかもトマス・ネーゲルを生みだすことによってわたしを産みだしたことを信じるのは奇想天外に思える。長いあいだ、わたしというものはいなかった。しかし、ある時ある場所で特定の物理的有機体が形成され、突如、わたしというものが、この有機体が生きながらえるかぎり、いる。」(『どこでもないところからの眺め』pp.88‐89)

 この引用の一番はじめのセンテンスで、わたしは世界から分離される。わたしが分離された後との世界を、ネーゲルは二つ目のセンテンスにて、「無中心の宇宙」と呼んでいる。つまりは、わたしは中心なのである。しかも、その無中心の宇宙の中には、わたしであるべき人物トマス・ネーゲルも含まれている。したがって、たいへん不思議なことに、トマス・ネーゲルを含めた無中心の宇宙と、中心であるわたしは分離される。
 さて、何かのステップが間違っているから、このような変なことになっているのではあるまいか。

 中心性という事柄をいま少し明確にするのために、つぎは、デイビッド・ルイスを引いてみよう。1970年に発表された「アンセルムスと現実性」と題された論文の終章に近い第九章からの一節である。

「現実性の指標的分析に対する最も強力な根拠は、われわれのこの現実(our own actuality)に対する懐疑がなぜ不合理であるかを説明することである。われわれが現実世界とは別の可能世界における、可能ではあるが現実ではないような住人だ、などとは言えないと、われわれはどうやって知ることができるだろうか。われわれの世界のどんな特徴を挙げようと、それは現実ではない別の世界と共有されているのだから、どんな証拠にもならないだろう。現実化されていないがいみじくも青々とした草もあるし、現実化されていないが(現実化されていない)パンをいみじくも買えるドルもあろう。そして、現実化されていないが自分が現実であるといみじくも確信している哲学者もいるだろう。われわれは、われわれが現実である(we are actual)ことを全く不思議な方法で知っているか、或いは、全く知らないかのどちらかである。」

 一つ目のセンテンスに出てくる「指標的」とは、「わたし」や「今」に代表されるような文脈依存的な名辞の性質である。「現実」もまた、どこが中心となっているかによって意味を異にするのである。そして、ルイスは、このような中心性を確かだと納得する論拠として、「われわれのこの現実」という概念、そして、それをひとまず懐疑してみる思考を挙げている。現にここにいるわれわれが、実は、現にここにおらず、単なる可能性にすぎないと懐疑することなどそもそもできるのだろうか?というわけである。それはできない、というのがルイスの応えである。しかも、そのような中心性は、世界内のどんな特徴をもってきても証拠にならないような確実さなのだと論じている。

 したがって、「われわれは、われわれが現実であることを全く不思議な方法で知っている」と言うわけだ。もしも、われわれがこの記事で定義したような、きつい意味合いでの「事実」があるのだとするならば、その候補は、ネーゲルやルイスが言及するわたしや現実などの中心性ではなかろうかと思われるのである。(つづく)


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