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いまだ"敬語”との距離感がつかめん

「あのね、先輩には敬語を使わなきゃいけないの」

音楽室前の廊下で、衝撃が走った。心臓がドキドキして、顔がカーッと熱くなったのがわかった。中学1年の春のことである。

中学に入って、私は幼稚園からずっと仲良しだった幼馴染と同じ吹奏楽部に入った。幼馴染と言っても、私より学年はひとつ上。小学生までは「先輩・後輩」なんて概念もなく、単純に「友達・近所のお姉さん」だった人だ。これまでは年齢や学年なんて意識せず、ずっと「ちゃん」づけ・タメ口だったのだ。そう、ほんの2週間前までは。

「中学では、先輩には敬語を使わなくちゃいけないんだ。だから、これからは『先輩』って呼んで、敬語で話してもらえる?」

私を廊下に呼び出した「先輩」は、とても優しい口調だったと記憶している。今となっては他の先輩の手前で言わねばならなかっただろう事情もわかるし、社会に出ていく前に行ってもらってよかったと感謝したい。友達に「先輩」として注意するのは心が痛かったことだろう。

オーケー、オーケー。じゃあ学校では敬語にするね!中学生って大変だねえ!(ウィンク)

……みたいな軽いノリで受け取れたらよかったのだけど、私は繊細でマジメでビビリだったため、「やっちまった!!!」という気持ちが大暴走した。周りも絶対「え、あの子タメ口なんだけど」って思ってたやつだ!やっちまった!世間知らずで恥ずかしい!あああ、入学式からやり直したい!

それから、「先輩」とうまく話せなくなってしまった。

その幼馴染だけじゃない。「先輩」「年上」という存在が、いつもちょっと怖くて。本当は「馴れ馴れしいな……」って思われてたらどうしようって思ってしまって、なかなか距離が縮められない。高校生になっても、大学生になっても、大人になっても根本的にはそのままだった。

「後輩」として良い関係は築けるし、大好きな先輩はたくさんいる。ただ、私にとって先輩たちは「友達のように接してはいけない相手」であり、敬語で話さないといけない人だった。だから、先輩に対してタメ口を交えて話したり、友達みたいな距離感で接する同級生に心底ギョッとするのと同時に、すごく羨ましさも感じていた。マジメだねえ……

一瞬、「敬語の呪縛」が解けかけたのはアメリカに留学したときで、みんな年齢なんてわからんけどとりあえず友達のように話す、みたいな環境に放り込まれてすごく気楽だった。だけど、英語のときだけ。日本語で日本人コミュニティに戻れば、私はまたしても距離感のつかめない「敬語」の世界に戻ってきた。

ちなみに、夫は親友の年齢がわからないらしい。「んー、たぶん年下……かな?」と言われた。1歳違うだけで敬語を叩き込まれるのとは、対極の世界だなあと羨ましい。


ああ、ナチュラルにタメ口が使える人たちが羨ましい。自分から「タメ口でいい?」って聞けばいいのか?いや、それはできない。だって万が一「え……敬語でお願いします」って言われちゃったら(言われない)、たぶんもう立ち直れないし。そもそも「仲良くなりたいからタメ口でいい?」ってなんやねん、「お互い呼び捨てでマブダチね!」みたいな中学生か。

出会ったばかりの頃はみんな敬語なわけなので、そこからの距離の詰め方が、私にはいまだにつかめない。逆に自分だけ敬語だと相手は壁を感じるかも……なんて考えて、相手の口調をよく観察しながら、内心ドギマギしながらタメ口を混ぜ込んでみたりしている。

年上だけじゃない。同じ年でも年下でも「敬語」から入って、それをタメ口に切り替えるタイミングとか、むしろ切り替えなくていいのかとか、そういうのをずっと考えてきたような気がする。ぐるぐる。そして今、ママ友とかにも同じことを考えている。エンドレス。

っていうか、別にタメ口がききたいわけじゃないのだ。敬語のままでも仲良くなれる人もいるし、タメ口だって壁ができる人もいる。つまり、コミュ力の問題な気がしてきた……。

ここまで読んでお気付きだろうか。私がまた「考えすぎている」ということに。「あんた、考えすぎだよ」って思うよね。私もそう思う。

私はよくも悪くも、こういう小さいことをこねくりまわしながら生きている。敬語に関してこねくり回してみた結果、私の中で「完全に気にしすぎ」という結論が出た(今更)。きっと私は、「敬語であるか、そうじゃないか」に囚われすぎてきたのだと思う。中学時代の衝撃から、抜け出せずに大人になってしもうた。


でも今ならわかる。大事なのは、お互いに心地よい距離感で会話ができるかどうか、なのだ。

そう思えるようになったのには、この数年でできた「友達たち」の存在がある。年齢や肩書きは関係のなく、単純に尊敬できて大好きな”友達”と呼べる人たち。同じ興味関心があったり、心を支え合えたり、悩みを相談できたり。「学年」なんかで縛られない大人の世界では、本当にいろんな友達ができる。楽しい。

そして、そういう友達と話していて感じるのは「きっと敬語かどうかは気にしないんだろうな」という安心感だ。話している内容や距離感が大事だから、最後が「ですね」なのか、「だよね」なのかは、大した問題ではないと思える。

友達も私を「後輩」とは見ていないし、私も彼らを尊敬しつつ「同志」のように感じている。だから私は今、安心して、試行錯誤しながら敬語との距離を測ろうとしている。

いまだにつかめん、敬語との距離。日本で生きている限り、たぶんずっと考え続ける。けど、もう囚われない、たぶん。相手をリスペクトして、親しんで、丁寧に言葉をつづればちゃんと伝わるのだと、新しい友達たちに教えてもらったのだから。

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