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「2020年に『みゆき』から近代文学から続く「萌え」とフェミニズムについて考えてみる」|『ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本社会の青春』ボツ原稿

PLANETS』のブロマガで連載中の『ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本社会の青春』『みゆき』後編が配信された。

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その前に一度書いていた原稿は大塚英志さんの『「妹」の運命 萌える近代文学者たち』を参考に「妹萌え」について書いた原稿は『みゆき』にほとんど触れないものとなってしまった。そりゃあ、書き直ししないとダメだよねってことで公開されたものは『みゆき』とはあだち充版『うる星やつら』だって話を書いてます。

ボツ原稿だけど、この何ヶ月とか考えていて、数年で起きているフェミニズムのことなんかは書きたかったので書いたものなので挙げときます。

現在進行中の「妹」を巡る物語『MIX』

前回の連載で『みゆき』を始めた際にあだち充と編集者の亀井が連載を始める際に決めた二つのことについて触れた。それは「エッチである」ことと「スポーツはしない」ということだった。これは『ナイン』『陽当たり良好!』の反省からくるものだったと考えられる。そして、なにより『みゆき』が大ヒットした要因はヒロインが「妹」であったことは疑いようのない。

現在では「妹萌え」という単語も様々なコンテンツの中で当たり前に使われているが、その大きな要因やきっかけになったのはやはり80年代初頭に連載され、ラブコメを牽引した『みゆき』になるのではないだろうか。
なぜ『みゆき』という作品が大ヒットして、当時の若者の心を捉えたのか。その理由としての「妹」と「萌え」が実は日本の近代における文学との歴史とも大きく関わっていたことを考察してみたい。そして、この「妹」と「萌え」について考えることは実は現在起きているフェミニズムの問題にも通じているはずだ。日本赤十字社の『宇崎ちゃんは遊びたい』×献血コラボキャンペーンはTwitterでも様々な意見があったことは記憶に新しいのではないだろうか。
なぜフェミニストに対するツイートに過剰に反応する人たちがいたのか、それも「萌え」を巡るものが一旦にあるように感じられる。今は1980年代ではなく、2020年だということを意識しないで、古い考えのままでいいと、アップデートする必要がないと思う人は、この『PLANETS』のブロマガ読者と思うので、今回触れてみたい。

『みゆき』は1980年から1984年に連載され、『タッチ』は1981年から1986年まで連載された。この二作品であだち充は国民的な人気漫画家となった。2012年から現在まで月刊誌『ゲッサン』において連載されているのが集大成的なものを感じさせる『MIX』である。コミックスとしては年に2巻が出る程度なので、2020年の2月現在までで16巻が発売されている。

『MIX』は『タッチ』の舞台になった明青学園を再び舞台とした野球漫画であり、タイトルの通りあだち充作品のミックス的な要素があるものとなっている。同時期に連載していた『みゆき』と『タッチ』は同じ世界観を共有していた。『MIX』でも、『タッチ』の登場人物たちだけではなく、『みゆき』の間崎竜一がラーメン屋(途中から喫茶店ドラゴンになる)店主として登場している。

『MIX』における主人公は立花投馬であり、顔は『みゆき』の若松真人や『タッチ』の上杉達也とほぼ見分けがつかない。このスターシステム的なことからも彼が正統的な主人公である。もう一人の主人公が立花走一郎。彼は投馬とは同級生だが義兄であり、ピッチャーの投馬に対する女房的なキャッチャーである。投馬は母を、走一郎は父を幼少期に亡くしており、残された父と母の再婚で家族になっている。ここで『タッチ』における上杉達也と上杉和也という双子の関係性に近いものが持ち込まれている。そして、走一郎には音美という一つ下の妹がいる。

『MIX』における投馬と音美は血の繋がらない兄妹という設定が『みゆき』の若松真人と若松みゆきを彷彿させる。前回も少し紹介したが、『みゆき』の兄妹のバージョン違いの父娘版として『じんべえ』という作品もある。そして、再びの兄妹ものの要素を含んでいる『MIX』をリアルタイムで読める今だからこそ『みゆき』を読んでみてほしい。
若松みゆきや鹿島みゆきの名前の元になった中島みゆきの『時代』という曲にはこんな歌詞がある。

そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ
あんな時代もあったねと
きっと笑って話せるわ
だから 今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう

まわるまわるよ 時代はまわる
喜び悲しみくり返し
今日は別れた恋人たちも
生まれ変わって めぐりあうよ

『みゆき』が連載されていた1980年から40年が経った今、改めて読むと現在では問題になるような、SNSで炎上しそうな部分が『みゆき』にないわけではない。そもそも『みゆき』の前に描かれていた『ナイン』『陽当たり良好!』では主人公ではないが、メインの登場人物が痴漢や下着泥棒をしているシーンがある。これは当時でもアウトだが、今だったらそのシーンなどは少年漫画誌に載ることはないだろう。

また、『みゆき』ではあだちと亀井が話していたように、「エッチ」であることが作品の核になっている。『みゆき』ではダブルヒロインである若松みゆきと鹿島みゆきの水着と下着に関するエピソードが異常に多い。それだけをひたすら楽しく、あだち充が描いている印象すら読んでいて感じられるし、実際に当時のあだち充の筆はノリに乗っていたことも前回触れた。

80年代の読者であった少年たちが「エッチ」だと思うのはそういうものだったのも大きいのだろう。それもあってか、あだち充作品のイメージは下着を手に取って「ムフフ♡」とにやけている顔やすぐに水着姿を描くというイメージがいまだに残っている。しかし、あだち充の加齢による「エッチ」なものへの興味が薄れているというよりも、彼は時代に合わせて少しずつその「エッチ」である表現を微調整していっているように作品が発表された順に読んでいくと感じられる。

ヒロインの水着姿は冒頭やカラーグラビアなどでは健在であるが、それはほぼサービスカットと言えるものだ。下着にまつわるものはある時期からほとんど扱われなくなっている。このことは実はあだち充が少年漫画誌から少女漫画誌に活動の場所を移していたことがのちのち影響していた可能性もあるのかもしれない。

さきほどの中島みゆきの『時代』が発売された1975年から『ナイン』で「少年サンデー」に呼び戻されるまでの間は「少女コミック」であだちは漫画を描いていた。当時の「少女コミック」には萩尾望都や竹宮恵子たち「花の24年組」のスター少女漫画家たちがしのぎを削りながら、現在では名作と呼ばれる漫画作品を生み出していた。彼女たちの自由な作風や漫画での新しい表現に向かっていく姿勢にあだちは刺激を受けており、少年漫画よりも少女漫画のほうがおもしろかったとのちに述懐している。彼女たちの漫画は現在のBLに繋がっていくものもいくつかあった。

あだちは当時それらの作品をおもしろいと読んでいたので、そこに現れていた一種のフェミコードを無意識のうちに学んでいた可能性もありそうだ。高橋留美子が小池一夫の開講した「劇画村塾」出身であることとも対象的だ。
今回取り上げる近代文学から始まった「妹」と「萌え」におけるこの国のフェミニズム問題を、「エッチ」であり「妹萌え」を描いていた『みゆき』は実はぎりぎりのところでうまくかわしているようにも思えてくるのも、彼が少女漫画誌にいたことが関係しているように思えてくる。


捨て子たちが作った近代的な「私」

そもそもなぜ「妹」に萌えるのか? 日本は本当にずっと昔からロリコンの国なのか? また海外ではどうだろう? と思ったことはないだろうか。
私は漫画やアニメなどを読んだり見たりしてもキャラクターに対して「萌え」というのをほぼ感じないこともあり、周りの人たちがそれらに「萌え」を感じたりするという時に、よく「萌え」ってなんだろうと考える。また、実際に妹がいる人が「妹萌え」するというのもあまり聞かない。だとするとその「妹」に対する欲望や「萌え」はどこから来ているのだろうか。

世界各国にある「神話」では近親相姦はよくあることだし、日本では『古事記』においてはイザナギとイザナミの兄妹神(天皇家の先祖としてのフィクション)は男女として交わって国生みをしたと記されている。そもそもインセストタブーが「大きな物語」の始まりとして日本だけではなく世界中にあるということはそれらの「萌え」にも重要なこともかもしれない。
となると兄と妹が性的な関係になること、その禁忌(近親相姦)を冒すことや「萌え」ることとは自分をなにかとを一体化させたいという欲望の発露なのかもしれない。それは無意識化にある「国生み」や神話的な世界、つまり自分が世界や歴史を作りたいという欲望の現れだとも言えなくもない。その派生としてこの20年近くの「セカイ系」はあったのかもしれない。

僕と彼女の恋が成就するかでこの世界が続くか続かないかが決まってしまうという圧倒的な自己肯定感と物語の主人公感が「セカイ系」にはある。新海誠監督『君の名は。』『天気の子』の大ヒットによって、もはや「セカイ系」ということはあまりに一般化し当たり前のものとなってしまい、「セカイ系」という言葉が消えた気すらする。

主題歌であったラッドウィンプスの歌詞も合わせて、自分語りが肥大化する現在の世界においては誰もが「セカイ系」の中で生きていて、もはやそれが特別なことではなくなってしまったように感じられる。

もしそうだとするならば、SNS上でアニメや漫画のアイコンをつかったアカウントのプロフィールに書かれている言葉に「日本」だったり「愛国主義者」だったり、「中国」「韓国」への敵意を剥き出しにしているのも理解できなくもない。自分が神、創造主である以上、自分の考えや想像を越えるものや異なる意見は許せないと言われれば、なるほどなと思う。

「私」という概念は近代以降、つまり明治維新以降に日本に持ち込まれていたものだ。リアリズム、自然主義に傾倒していった『蒲団』で有名な小説家・田山花袋が従軍記者として戦地に行くのも見たそのものを書くためだった。そこに持ち込まれた「私」は「私」というキャラクターなのだから、現実の風景にアニメや漫画のキャラクターを重ねるようなものである。だから、近代小説とはキャラクター小説であり、その意味でラノベは正統な近代小説の流れにある、というか実はそのまんまで呼び方が違うだけだったりするちとも言える。そう考えるとずっと私たちはキャラクター小説を読んできたことになる。

近代文学の始まりにあった「言文一致」体によって、存在しない「私」がまるで本当に存在してるように感じたり、著者と「私」を重ね合わせるという読み方が一般的になった。その方が読者は物語に入り込めるし、「私」があるかのように錯覚できるというのが大きいということもある。村上春樹の小説における「僕」は「僕」というキャラクターでしかないのだから、「僕」に村上春樹を投影しても近代文学における「私」を巡る問題を見誤ってしまう。

空虚な「私」の中になにをいれるかがアイデンティティになってしまうために、自分と他者の関係性においては人間対人間の構図で考えられなくなる。海外においてはそもそも個人としての尊厳と自由に重きを置いていて、日本のような「村社会」では個人よりも集団の継続が大事であり、集団のために個人が押し潰されても問題視されてこなかった。それが一億総玉砕になるし、戦後にもそれは抜けないので例えば会社を自分の都合でやめようとすると虐められたり無視されたりする。

他者性がないのに、他者を攻撃するというのは自分がすでに集団の一部であり、集団のルールや掟を破ったりするものは集団に攻撃している、つまり一部である自分を攻撃していると錯覚する。これは個人主義だと基本的にはありえない。アカデミー賞を受賞したカズ・ヒロさんの発言で日本が嫌でアメリカ人になったと言っていたことを思い出させる。


民俗学における開祖のような柳田國男、折口信夫、小泉八雲の三人は揃って母なる国を求め、もらい子幻想(自身の母を本当の母と思えない)があり、自身のアイデンティティを探し求める中で学問としての民俗学や書物を残している。

日本近代文学を代表する夏目漱石は望まれない子として生まれすぐに養子に出された。そこでの養父母との関係も小説『道草』として書いているにも有名な話だ。また、「漫画の神様」と言えば手塚治虫だが、彼が幼少期に何度も真似して書いていたのが田河水泡の『のらくろ』であり、大塚英志によって名付けられた「アトムの命題」は手塚治虫よりさらに遡っていくと『のらくろ』にたどり着く。キャラクター的身体が傷つくということを漫画で黎明期に描いたのは田河水泡だった。

日本漫画界における「神様の父」にすらなりうるのが田河水泡だが、そのことは忘れ去られているか、なかったことにされている。田河水泡は生まれてすぐに母が亡くなり、父の再婚のために伯父夫婦の元に養子に出されている。その伯父の影響で絵筆を取るようになった。その伯父も実父も亡くなってしまい、尋常小学校を卒業後には働きでるという恵まれない家庭環境だった。それが『のらくろ』という作品にまるで「私小説」のように描かれている。

父と母を巡る捨て子としての「私」を巡る冒険や思考が、日本における近代文化を作ってきた人に共通していることはかなり重要なことだ。確かに昔は親族間で養子に出されることは現在と比べると当たり前のように多かったはずだが、それでも養子に出されて生家で父と母から離されて育ったという経験とその当人は一生向き合うしかない。そのことが「私」という近代的な自我が日本で形成されていく時に大きく影響をしている。そのからっぽな「私」に何を入れるのかという問題がずっと付きまとうことになった。


近代文学とギャルゲーに至る原罪との格闘と「私」の形成

『蒲団』以前の花袋が今日の少女小説的な小説の作者であったことは知られているが、当の女学生が「言文一致」の手紙を書いてきたことで作家は自身の小説が造り出した「少女」をそこには投影し欲情している。つまりそれは自作自演で「文学」が仮想として創り出した性的対象であり、いわば「文体」に対して作者は欲情しているのである。つまりそれは自作自演で「文学」が仮想として創り出した性的対象であり、いわば「文体」に対して作者は欲情しているのである。この「文体」のなす仮想現実ゲームを作家は生身の女学生を相手に行ない、そして当初はそれにつきあった芳子は「文体」だけを持って作家の庇護下から離れようとした、といえる。そのことは「近代」がその後に百年近くを経てコンピューターメディアを用いて仮想の「妹」を量産していくことになる現在を何故必要としたかを正確に物語っている。
芳子のモデルであった岡田美知代が花袋の編集していた雑誌の常連投稿者であったことは知られているが、文学の中の女性像と言文一致はセットとなって男たちから「妹」たちに彼女らを啓蒙されるべく目論まれて与えられていたといっていいだろう。『蒲団』作中の小説家が芳子を弟子にとろうと思ったのもその「手紙」が「癖の無い、すらすらした将来発達の見込」があると判断したからだが芳子自身が作家の「美文的小説の崇拝者」であることを考えればその「文体」はやはりこの作家が与えたことになる。作家は芳子に「処女にして文学者たるの危険」をまず書いて送りもし、また「写真を送れ」を書きかけてみたりと明らかに下心で行動していることも「私小説」としての『蒲団』は告白している。
新体詩を含む近代文学がつくり出した「妹」たちの運命は自ずと明らかになる。彼女たちは男たちの文学的内面の投影先として見出され、しかし、与えられた「内面」が彼女たちの「私」となって自律的に動き出した瞬間、男は逃走する。永代静雄のアリスが一方では良妻賢母、他方では発狂という二つの選択肢しかなかったのは当然であって、もはや「妹」ではなくなった者は「良妻賢母」となるか、でなければ精神病という近代の見出した病の中にその内面をカテゴライズされるしかないのである。それを江藤は「母の崩壊」という言い方で論じたのだといえる。男たちの心の病は小説中では自己実現のプロセスとして周到に位置付けられ、しかし「妹」の狂気は自己実現のプロセスに位置付けられない。無論、現実の「妹」たちは芳子のモデルの永代美知代の奔放な人生を見ても、異国の地まで逃げた恋人を追って来たエリーゼの行動力をとっても一方的に内面を与えられ、かつ剥奪されるような脆弱な存在ではない。
だが、近代社会の新しい世相として「兄妹の親しみが深く」なってきたことにち注意をうながし、それを「婦人解放」の一過程として見るべきだとする柳田國男もまた「妹」たちの「内面」と向かい合うことを忌避する。
「妹」たちの「内面」は近代の所産ではなく、「婦人の特殊生理」として説明されてしまう。更に琉球の「をなり神」信仰、すなわち男性が妹をシャーマンとみなし自らを庇護せしめる信仰を「妹の力」と呼び、「妹」の「近代」は消去され「古代」に帰属させられる。近代小説と民俗学が「妹」たちに下した結論は以上のようなものであり、しかし「妹」たちは男たちの脆弱な内面を代償するものとして「少女」というもう一つの呼び名とともに現代詩にもギャルゲーの如きサブカルチャーの中にも等しく生き延び、未だ批評されないものとしても今も、そこにある。
「少女」を「傷つけた」という原罪と格闘し、かつ、「少女」を喪失する甘美さが、ある種の美少女ゲームの本質であることはササキバラゴウあたりが一連の美少女ゲーム論で指摘している。それが美少女ゲーム全体に敷衍できる特質であるかはぼくは判断するほどの材料に接していないが、少なくとも「少女」を傷つけた罪を背負う責任論を介してのプレイヤーの主体形成を主張するササキバラの論理展開はまだありふれた『蒲団』の論理の反復にならない。「少女」なり「妹」はその意味で傷つけられ失われ、あるいは狂気に落ちるものとして常にあるということは本編で繰り返して述べたが、近代作家もギャルゲーのプレイヤーもそうやってかろうじて「私」という主体を形成しているのがこの国の文学史であり、サブカルチャー史である。例えば村上春樹がいつも自殺したガールフレンドのことを主人公がぐだぐだと考えることで「僕」を根拠づけてきたことを引き合いに出すまでもないだろう。

上記の引用は大塚英志著『「妹」の運命 萌える近代文学者たち』からの抜粋。先ほども触れた田山花袋の『蒲団』や明治の村上春樹とすら言える水野葉舟などの作品や、柳田國男になる前に新体詩を詠っていた松岡國男などについて取り上げている評論である。

読んでいくと近代以降の「私」を巡る問題と「妹」と「萌え」について、それとナショナリズムの問題が無関係ではないことがわかる。空虚な自分を偽り、中になにを入れていくか。ネトウヨや差別的な発言をしてるアカウントのアイコンがアニメや漫画の美少女キャラクターだったりすると、あまりのテンプレすぎてもはや驚きすらないが、そこには「私」と「萌え」を巡る問題が関係してる可能性が高く、また、フェミニストに対して嫌悪感や排外主義な態度の根元もそれが関連してるように感じられる。

現政権が家という時代錯誤なことを持ち出すのも、夫婦別姓を認めないのも、男尊女卑や賃金格差が続くのも彼等が思う古き良き日本とは、近代の始まりにあった男性が「妹」(血の繋がりはなくても)を教え導き(教育をして)、その性すらも管理をするという流れがあり、彼女たちの「内面」はないものとしてきたことに先祖返りしようとしているからだろう。

今、フェミニスト(男女問わず)が声をあげると過剰に反発し攻撃する人たちは彼女たちの「内面」がないものだと思ってきた、あるいは無視してきたからその「内面」に出会って価値観が揺さぶられることを恐れてより攻撃的になっているのではないだろうか。「私」の内面がからっぽで入れているカートリッジが日本や民族なんてしょうもないもので、個人としてのアイデンティティがないから、揺さぶられて失うことを過剰に恐れているように思えてくる。


「気持ち悪い」という言葉から逃げ出したまま

水子(国生みではイザナギとイザナミの両親から何柱かが生まれたが、手足のなかった子(柱)は葦舟に乗せられ流された。たどり着いた先で拾われて育てられてその土地に富をもたらす恵比寿となる。これは各地に様々な伝承として伝わっている。貴種流離譚の基本形でもある)のような姿で出現し、形態を進化させながら、最終的には東京駅を背に父と母(天皇と皇后)がいる皇居に向かって凍結された『シン・ゴジラ』。あの作品は日本に住む私たちの潜在意識にある「天皇制」に対しての気持ちを考えさせるものでもあった。庵野秀明監督がここまで社会性のある作品を作るのかと公開時に私は驚いた。

しかし、震災から来年で10年が経つという2020年にそのことについて考えていると、いや、もっと大事なことがあったのではないかと思うようになった。この「あだち論」のために『みゆき』を読み返しながら、そして『「妹」の運命 萌える近代文学者たち』を読んでいるとこの数年で起きていた「#Me Too」とフェミニズムについて思うところがたくさんあった。

『シン・ゴジラ』で描かれてしまった天皇制も大事だが、その前に私たちはずっと『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、いわゆる「旧劇場版」でのラストシーンでのアスカのあの台詞から逃げ続けた、目を背け続けた結果として、現在のファミニズムにおける不毛なTwitterでの戦い、意見の食い違いと罵詈雑言と非難轟々、わかりあえなさに繋がっているのではないだろうか。

「旧劇場版」ラストシーンでは赤い海に囲まれた白い砂浜にシンジとアスカだけが戻ってくる。横たわっているアスカに気づいたシンジは彼女の首を締めるが、それに気づいたアスカに頬を撫でられて、締めるのを止めて嗚咽する。そして、最後にアスカがシンジに言い放った言葉が「気持ち悪い」だった。アスカという他者から逃げ続け、その他者性を否定するかのような自分語りと、自分個人の物語が溢れ出してしまったのが現在の世界なのだろう。そう考えると、SNSにおけるフェミニズムに対して反発する、アンチな人たちはあの「シンジくん」であり、自分が振るう暴力に対しての相手側の「内面」などないものとしている。だから、声をあげられ怒られると自分は悪くない、この世界が悪いんだと母胎に逃げようとする。母胎は決して自分を傷つけることもなく、安心していられる最後の聖域となる。まるで内篭りのゼロ年代以降の日本社会のようにも思えなくもない。その間にいろんなものに取り残されてしってしまったと感じることがこの数年で増えてきた。

最後の聖域である母胎に逃げ込むということは家父長制による男子は家を継ぐものとして特別扱いされた名残(弊害)であり、「妹」はその制度においては兄の望む形に教育され、性的にも管理されてしまう、それが近代文学における文学者の「萌え」から続いていることに起因してる部分はかなりあるのではないだろうか。『エヴァンゲリオン』「旧劇場版」がないことにされ、リブートされた『ヱヴァンゲリヲン』においては世界は繰り返されてる設定であるはずだが、「旧劇場版」の時間軸も可能性世界としては残されているのかもしれない。でも、「旧劇場版」のアスカの「気持ち悪い」に向き合わなかった結果として「クール・ジャパン」とか「美しい国」とか最高に気持ち悪い日本になったんじゃないのだろうか。

天皇制に向き合う前に僕らはアスカのあの言葉に向かい合う必要がある。

『みゆき』においては今読むと近代文学における「萌え」における暴力性を巧妙に避けている印象をうける。妹である若松みゆきは兄の若松真人より勉学、スポーツなどあらゆる面で突出していて教育されることはない。そもそも真人がみゆきより秀でている部分がほぼない。あんなかわいい子がダメな兄貴を好きなんだ、という読者は自分を重ね合わせることができるが、みゆきが真人を好きなのは幼少期に一緒に過ごしていた時の彼の勇気が原初にある。たいていの男子に勇気なんて実際のところないという皮肉にすら感じられる。いや、当時のあだち充はそんなことは思っていなかっただろうけれど。

最終回で間崎親子の会話の中には、高一の真人と中三のみゆきが再会した時から、みゆきは真人とは血が繋がらないことを知っていて表面上はインセクトタブーに見えるが、ひとりの女性としてひとりの男性である真人に好意を持っていたことがなんとなしに語られる(ちょっとあだち充の言い訳っぽく感じられなくもないが)。田山花袋たちが陥った「萌え」による自分の思い通りの「妹」に教育しようとしたが、現在の彼女たちに否定された流れを真人は辿らずにすんでいる。真人はみゆきを妹として、そして、いち個人としての関係性を築こうと向き合っていたのはかなり重要なことだったはずだ。

しかし、『みゆき』の表面上に見えた「妹萌え」のみが影響を与え、系譜としてギャルゲーやPCエロゲーなどに繋がっていく。そこでは近代文学にあった「妹」を凌辱するという性的な部分が突出してしまう。彼女たちの性の管理は兄が行うという欲望が繰り返されてしまった。これが当然のものとして、カルチャーとして享受してきた人たちは自分の知る世界を否定されたような気になり、フェミニズムに対する言動に怒りを露にしている印象がある。


ここであだち充と高橋留美子という二大巨頭、コインの裏表を考えてみると、あだち充最新作『MIX』を読む限り、サービスショットして水着シーンなど冒頭カットにあったりするが、さすがに80年代の頃に描いていたような下着に関するシーン(『みゆき』はみゆきたちの下着に関するエピソードだらけ)はなくなっている。もちろん時代もあるだろうが、やはり一時あだち充が「少女コミック」に活動の場を移し、「花の24年組」の女性漫画家に無意識に受けた影響のように思える。高橋留美子は80年代のラブコメにおいては「萌え」の概念としては、近代作家たちが「妹」に対してあったものに自ずと加担し強化してしまったのではないか。いや、もっと彼らよりもヤバい「萌え」から起きうる「母性のディストピア」を発動させてしまったまま、誰も止められなくなっているのが現在かもしれない。


タガが外れていく物語

近代の始まりにあった民俗学、小説、漫画で大きな影響を与えた人物たちは幼少期の体験として、母を求めるがそれができずに人格形成として、アイデンティティの拠り所として「私」の入れ物としてのなにかを欲していた。それが作品に繋がっていくが、それもあるのか近代以降の創作が「私」探しのツールとして拡張していくこととリンクした。

近代化とは「私」を巡るものであったのだが、そこに近代的な個人、自由と尊厳を確立できずにずるずると続いた(戦後のある種の緊張がありながらも戦地にならないぬるま湯としての)平和と経済成長でそれはあまり考えずにきてしまった。そして、それが崩壊しもはやOSのアップデートではどうにもならない国家を支えるシステムを入れ替えることも既得権益側がしないために、起きる衝突と無理解と暴力が溢れていく。そこにある男尊女卑も近代以降からの「妹萌え」というものがある軸になっているのではないだろうか。

「私」という主体、そして、近代文学者が「私」の構築のためになぜ「萌え」を必要としたのか、つまり現在における「妹萌え」は歴史(神話として)の始まりからあったものであるが、近代で再度必要とされ、80年代ポップカルチャーとしての漫画であだち充が『みゆき』を描き、ラブコメが萌芽して拡張していく先にあった「妹」に萌える人たち。彼らのダイレクトな性的な欲求としての凌辱としてのギャルゲーやPCエロゲー、同時に処女崇拝としての偶像(アイドル文化)がゼロ年代に80年代のアイドルブームのより戻しのように起きたとも考えられなくもない。

AKB48の選抜総選挙がテレビで放送されるということは、田山に小説で描かれる比ではない多くの人たちが「妹」を欲求し、注目したことになる。アイドルは恋愛をしてはいけないというのは、そもそも「兄」である「ファン」によって性的な管理をされるのとほぼ変わりはない。そして、アイドルの恋愛が発覚すると裏切られたと怒るファンはまるで、求めていた「妹像」ではない彼女たちの現実の女性としての内面を見せつけられ、あるいは恋人がいて処女ではないと知って怒って女学生を破門した田山花袋の『布団』の主人公そのものだ。

『みゆき』のラストシーンを考えてみると、田山花袋『蒲団』とは真反対な終わり方になっている。『蒲団』では小説を読ませて文体を与えた女学生がその「内面」を出してくると、上記のように怒って破門してしまう。最後には彼女の蒲団を抱きしめてその匂いを嗅ぐという有名なラストになる。『みゆき』では妹のみゆきに庇護されるように主人公の真人は大人になっていく(実際のところは両思いだから)ので、彼は「少女」を喪失することもなく、「傷つける」こともなく(鹿島みゆきのことは傷つけているが、どちらのみゆきとも性的な関係には作品中では進んでいない)、物語は真人と妹のみゆきが結ばれて終わっていく。

また。<「少女」を「傷つけた」という原罪と格闘し、かつ、「少女」を喪失する甘美さ>が「私」という主体を形成しているのが、この国の文学やサブカルチャーであったことを考えるとその意味でもあだち充という漫画家は特異な存在なのかもしれない。コマ割と風景の描写で心情を読者に伝えていく作風は、「少女」を喪失しなくても甘美さを演出できるからだ。画業50周年を迎えたあだち充が現役で描き続けている『MIX』において、「兄妹」の関係性がどんな風に展開されるのか非常にたのしみであり、そして、それをより濃厚に味わうために80年代の代表的なラブコメ漫画『みゆき』は今こそ読まれるべき漫画だろう。


(参考文献)
漫画家本vol.6『あだち充本』
『クイックジャパン』vol.62
あだち充『おあとがよろしいようで
大塚英志『「妹」の運命 萌える近代文学者たち

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