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『シスターフッド』試写

円山町の映画美学校で西原孝至監督『シスターフッド』試写に。

STORY
東京で暮らす私たち。
ドキュメンタリー映画監督の池田(岩瀬亮)は、フェミニズムに関するドキュメンタリーの公開に向け、取材を受ける日々を送っている。池田はある日、パートナーのユカ(秋月三佳)に、体調の悪い母親の介護をするため、彼女が暮らすカナダに移住すると告げられる。
ヌードモデルの兎丸(兎丸愛美)は、淳太(戸塚純貴)との関係について悩んでいる友人の大学生・美帆(遠藤新菜)に誘われて、池田の資料映像用のインタビュー取材に応じ、自らの家庭環境やヌードモデルになった経緯を率直に答えていく。
独立レーベルで活動を続けている歌手のBOMI(BOMI)がインタビューで語る、“幸せとは”に触発される池田。
それぞれの人間関係が交錯しながら、人生の大切な決断を下していく。

水道橋博士のメルマ旬報』でご一緒させてもらっている兎丸愛美さんが出演しているということでこの映画を最初に知った。作品は「STORY」の内容ではあるが、映画としては「ドキュメンタリー」と「劇映画」の要素がある。虚実が入り混じるようなメタ構造になっている。

兎丸愛美とBOMIのインタビューやライブだったり撮影風景はドキュメンタリーであるが、劇映画の部分で兎丸愛美が大学の授業で映画監督の池田に対してカメラの前で語るシーンは、本来は劇映画だがそこで語られる内容はドキュメンタリーに感じられ、フィクションの部分にノンフィクションが混ざりこんでいるという感じだ。しかも、作品自体は「ドキュメンタリー」と「劇映画」パートがあるのにも関わらず、「劇映画」の中にも「ドキュメンタリー」要素が入りこんでいて、虚実が入り混じることでより、彼女たちの声や視線はより届くものとなっていた。


「ポストトゥルース」とは、客観的な事実よりも虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況で、事実を軽視する社会のことを言うが、現在の世界は言うなれば「事実」と「虚偽」が入り混じっている。しかも、「事実」であっても嘘でもバカが言っても感情的なものに訴えかけるほうが強いという反転現象が起きてしまっている。

トランプ政権はアメリカにおける白人男性がかつてのように自分たちの方が偉いはずなのに有色人種や移民たちに仕事を奪われていると反感を示し、また農村地帯などの古き良きと言われるようなキリスト原理主義がいまだに強い影響を持つような地域の鬱憤が誕生させるきっかけになっているはずだ。彼が言うことや日本では安倍政権が吐き続ける嘘や差別主義丸出しな発言は、かつてあったと思われていたものが奪われたと思った古い価値観を持っている人が自分を保つために差別主義になったり、大きな声や権力といったものが間違えていても否定しないのは自分自身を否定することにつながると思っているかもしれない。

『シスターフッド』での「ドキュメンタリー」と「劇映画」という大きな意味で言うところの「ノンフィクション」と「フィクション」が入り混じることは極めて現在の世界に起きていることとリンクしている。

僕たちが生活しているこの2019年という時間軸はもはや事実や本当のことが最重要なものとしては上位にない世界だからだ。だからこそ、フィクションの力は少しずつ弱まっている。同時に、SNSをはじめとしたツールで個人が外部に向けて発信できるようになれば、当然ながら「誰か」の物語よりも「自分」の物語が優位になっていく。世界自体がメタフィクションになっているので、この映画における二面構造はリアリティを感じさせるものとなっている。


最近ではチョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』が話題になっているが、フェミニズムの問題はどんどん広がっている。それは「ポストトゥルース」の時代が広まっていくのと比例するように、きちんと声を出さないと個人の尊厳が奪われると多くの人が国を問わずに感じることが大きいのではないだろうか。

仕事終わってから下北沢のB&Bで翻訳家・斎藤真理子さんと書評家・倉本さおりさんのトーク「『82年生まれ、キム・ジヨン』ベストセラーが示唆すること」を聞きに。
日本でも重版がかかり、ヒットになっている『82年生まれ、キム・ジヨン』をメインにフェミニズムにおける日韓の違いや、男女間にあるもの、韓国でどう受けとけられていたのか、韓国でのフェミニストたちが今どう思われているのか、言語の違いによる日韓の差だけではなく、韓国の男性によるこの作品の嫌悪の理由や徴兵制というものについて。また、日本で発売になった際に最初にアマゾンジャパンに書き込んだのは韓国のこの作品を否定している人(韓国にはアマゾンないらしい)で、さらにこの作品を肯定する女性がそれに対してコメントをというように日本人がまだ読んでないうちにコメント欄で韓国の人たちが書いていたなど、大きな広がりを持つことになった作品についての話だった。
「男性が生きづらい世の中」になったという声も聞くけど、それは違っていて、今まで女性が抑圧されていたこと、声を出せなかったこと、男性社会で当たり前にされていたけど嫌だったことについて当事者から声が出て可視化されてきたということの意味をきちんと考えていかないといけない。(『水道橋博士のメルマ旬報』1月30日配信「碇のむきだし」1月18日の日記より)


麻生副総理が「産まない方が問題」と平気で言えてしまうこと、育児など働きやすい社会を作るはずの政治家ができていないことに無自覚でそんなことを言える。しかも副総理という位の人物が言うわけだから、なにも期待できないと多くの人は思うだろう。そして、これほどの発言をしても辞任もしないし、というか最近では統計問題も含めてだが、森友問題でも安倍総理をはじめ誰もけじめをつけないし責任を取らない。日本は偉くなったら問題を起こしても謝罪すれば許されて、正しくないことが起きて声を上げると排除されるというのが年々増えている。そうなれば、誰も声を上げないようになってしまう。


先日、読み始めたマーク・フィッシャー著『資本主義リアリズム』に出てきた鬱病快楽主義なども現在の社会における生きづらさや困難さの反応としてあるのかもしれない。それぞれがいままであった従来の役割(男らしいとか女らしいとか、家父長制や男尊女卑など)と資本主義におけるサービスの消費者としての狭間で板挟みになっている。なにもかもが消費されていってしまう。

世界の終わりは想像できても資本主義の終わりは想像できない、というように誰もが個人として在りたいと思うのにも関わらず、システムに絡みとられ、反対するものですらその中で消費されてシステムを破壊することもできずに、逆にシステムを強化してしまうこともありえる。


また、「ドキュメンタリー」と「劇映画」という構造を見ていると「撮る」者と「撮られる」者がいるという当たり前のことを思う。スマホの普及によって自撮りがより簡単に綺麗な画像になった。「私」が中心となる世界ではそうやって自分を世界に拡散できるようになっている。

一流のカメラマンは一流のスナイパーになれるというのを読んだのは漫画『ディエンビエンフー』だった気がするが、僕もそうだと思う。カメラマンはその瞬間、刹那を捉えて閉じ込める。それは時間を永久のものにしてしまう。銃撃して目標にトドメを刺すように、カメラマンはフレームの中をある意味では殺している。そして、永遠のものとする。しかし、セルフィーの時代には自分に銃口を向けて殺し続けている。その死の場面がインターネットにばらまかれている。つまり、かつては「撮る」者と「撮られる」者がある意味では別れて分断されていたが、もはやそれは簡単に入れ替わりが可能になっている。それは虚実入り混じる世界とどこか通じているように思わなくもない。

映画の最後のシーンでお互いにカメラで撮り合うシーンがあったのでそんなことを思った。兎丸さんはヌードモデルとして美しい裸体も魅力的だが、やはりその瞳に惹かれてしまうものがある。今回は映画なのでその声も心地いい。


兎丸さんはなんというかまるで鏡みたいだなと思うことがある。写される被写体であるにもかかわらず彼女の写った写真は見る側のなにかをあぶり出す。見る側の欲望やうしろめたさやなんかを。それはきっと彼女の才能のひとつなのだろう。
兎丸愛美はこれからもっと多くの人が注目せざる得ない存在に間違いなくなっていくはずだ。僕たちはその目撃者になる。

↑は『水道橋博士のメルマ旬報』で兎丸さんの紹介文として書いたものだが、この映画でもこのことを感じた。

映画公開は3月1日。公開の一週間後の3月8日は「国際女性デー」であり、『82年生まれ、キム・ジヨン』の盛り上がりと共に多くの人に注目されそうだなと思う。

公開されたらアップリンクにもう一度観に行こうと思う。


試写終わりに西原監督にご挨拶をした。2月25日発売の『週刊ポスト』の映画コーナー「予告編妄想かわら版」でこの作品取り上げてます。

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