『やっぱり契約破棄していいですか!?』&『タロウのバカ』

木曜。TCGカードの期限が8月末までだったので、更新ついでにヒューマントラスト渋谷に行って『やっぱり契約破棄していいですか!?』を鑑賞。自殺を試みるも10回失敗している作家志望の男と引退間近の初老の殺し屋。ノルマまであと一人というところで青年にあった殺し屋は契約を結ぶが、青年の元に編集者から連絡が来て契約破棄したい! でも、ノルマがあるんだよっていうコメディ映画。90分ほどで短いものであるが、イギリスらしいというのか、まあ、最後にはそうなるよねって思わせながらラストシーンはわりと意外だったけど、加瀬亮が昔出演してたガス・ヴァン・サント監督『永遠の僕たち』もこんなラストだったような、似たようなシーンがあったような気がする。


起きてからテアトル新宿で大森立嗣監督『タロウのバカ』を鑑賞。母親はいるがほぼ関心をもたれずに学校にも一度も通ったことのないタロウ(YOSHI)、たぶん十四、五歳ぐらい。本当に名前はあるが、つるんで遊んでいる高校生のエージ(菅田将暉)とスギオ(仲野太賀)から出会った時に自分の名前を言えなかったので、名前がないならタロウだと命名されて、それを使っている。

観ながら感じていたのはこれは大森監督は『時計じかけのオレンジ』を今の日本でやろうとしたのではないかということだった。暴力がある。レイプは実行されるが未遂に終わる。社会悪として彼らの中に巣食うものが絶望的な形のみで暴力として現れている。アレックスがエージだとすると、少し戸惑い弱さを見せるまだ向こう側へ完全にはいくほどの絶望がないスギオのコンビに、ネグレクトされているタロウが加わることでより危険な方向に物事は向かってしまう。


冒頭付近から拳銃が彼ら以外の人物が使用としており、映画の中に拳銃があるということはもちろん発砲されるし、誰かは撃たれるし、引き金は引かれる。そして、ダウン症などの障害を持っている人たちも多く出てくる。優生思想を彷彿させるようなセリフなどもあり、自分でひらがなだけは覚えたというタロウと共に社会にいるにも関わらずいないものとされているのだ、と言わんばかりに映画の中に出てくる。


タロウは幾人かに「好きってどういうこと?」と聞く。彼には好きという感情がわからない。おそらく感情の発露はあるが、言葉にできない。彼は学校という社会に一度もいっておらず読み書きができない。タロウは大きな声で笑って、どうしていいかわからなくなると叫ぶ、それは彼の心が感じる思いを彼が言葉にできないからだ。叫ぶことしかできない、自分に起きていることを彼は理解するツールとしての学びを与えられていない。


野生児であるとも言える彼を社会と繋ぐのがエージとスギオだが、彼らははみ出し始めるが人間性としての挫折や恋や嫉妬、希望と悲しみについては理解ができる。言葉でわかる、が故に苦悩してボーダーラインを越えてしまう。だからこそ、エンディングでの二人に起きることは必然ですらある。そして、言葉を持たないタロウはただ絶叫し、その感情がなんと呼ぶべきものなのか、また好きという感情を理解できないままだ。

大森監督作品で言えば、デビュー作『ゲルマニウムの夜』のような観たくないものを観さされる感覚がある。それは気づかないふりをしていた暴力性や社会の外のものたちと目が合う、立ちすくんでしまうしかなくなるものを描いているからかもしれない。

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