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『ネガティブ・ケイパビリティ ~答えの出ない事態に耐える力~』を読んで

多くの受賞歴をもつ小説家であり、臨床40年の精神科医が悩める現代人に最も必要と考えるのは「共感する」ことだ。この共感が成熟する過程で伴走し、容易に答えの出ない事態に耐えうる能力がネガティブ・ケイパビリティである。

古くは詩人のキーツがシェイクスピアに備わっていると発見した「負の力」は、第二次世界大戦に従軍した精神科医ビオンにより再発見され、著者の臨床の現場で腑に落ちる治療を支えている。昨今は教育、医療、介護の現場でも注目されている。セラピー犬の「心くん」の分かる仕組みからマニュアルに慣れた脳の限界、現代教育で重視されるポジティブ・ケイパビリティの偏り、希望する脳とプラセボ効果との関係……せっかちな見せかけの解決ではなく、共感の土台にある負の力がひらく、発展的な深い理解へ。
(「内容紹介」より)
私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。/だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが必要になってくるのです。
(「はじめに」より)

整理すると、「ネガティブ・ケイパビリティ」とは

・むやみに分かろうとするな
・分かった気になるな
・そのまま受け止めろ、そして時が熟すまで置いておけ


という姿勢のことだと思う。
この本を読んで印象に残ったこと・考えたこと以下4点について書いていく。

①じめっとした感情のパワー
②日薬と目薬について
③読書も学びもネガティブ・ケイパビリティ
④参与観察/発酵とネガティブ・ケイパビリティ

①じめっとした感情のパワー

私は幼い頃から自分の記録をするのが好きで、書き溜めてきたノートが30冊くらいある。それをたまに見返すのだが、「鬱々」「ぐるぐる」とした、晴れ渡らない感情が多い。とにかく多い。というか、堂々巡りになってどうしようもなく苦しいものを文字で吐露しているのだろう。

そのうちの一冊に貼り付けた新聞記事を思い出した。作家あさのあつこさんの「鬱々気分も悪くない」というコラムだ。

(2010年12月27日 朝日新聞)

たしかに、苦労している人や、周囲に公開せずとも自分なりの考えを巡らせている人など、「ハッピー三昧」ではない人の方が(または同じ人でもそういう面の方が)深さと面白みを感じ、「もっと知りたい」とも思わせるな、と改めて感じた。

私も高校時代、外見や成績などで周囲と比較し、「自分が自分であることに意味はあるのか」とか「あの子の方が価値があるのか」とかぐるぐる考えて腐っていた。
「小さなことにくよくよしないで生きられるようになりたい。そのためには、世界は広いと実感したい。様々な人と出会って、常識をくつがえされたい。」と進学した外大で、ようやく視界が晴れてきたと感じる。現在も「くよくよぐるぐる」はするが、高校時代の「底なしじめじめ沼」は力強い土台となってくれていると思う。

私の場合は「結果的に」ではあるが、「ネガティブな感情はダメだ。ポジティブにいかなくては。問題点は解決しなくちゃ」という強迫観念にかられる必要はないと感じる。ネガティブに身を浸すことで得られる深さは絶対にある。

②日薬と目薬について

(祈祷師や占い師、メディシンマンなどが行う)伝統的な治療に関する記述が面白かった。患者の治癒を促す要素は2つあるという。それは<日薬>と<目薬>だ。特に後者の<目薬>は、「誰かの見守る眼や他人の理解があるところでは、人は苦難を乗りこえられる」ということだそうだ。

ここで思い出したのは、トルコ土産で有名な青い目「ナザールボンジュウ」である。これは他人からの妬みや羨みから守ってくれる魔除けのお守りらしい。

ナザールボンジュウは違うようだが、「あなたが頑張っていること、知ってるよ。見守ってるよ」という意味合いのお守りもありそうだと思った。ちなみに留学中の私が連れて行った「見守り」のお守りは、テディベアのジュティちゃんだった。

トルコのナザールボンジュウ(筆者撮影)

③読書も学びもネガティブ・ケイパビリティ

難しい本を骨折って読み進めることもネガティブ・ケイパビリティの態度だと感じた。その時は理解できずとも、いったん自分の中にストックしておくのだ。そうすると、全く関係ないときポッと腑に落ちたり、経験を積む中でじわじわと理解できたりする。

またこの本でも述べられているように、学びにもネガティブ・ケイパビリティは重要だという。日本の学校現場では「すぐに答えを導き出せる問題解決能力」が求められている。これはいわば「脳内検索力」であって、考えさせているようで考えさせていないのではないか。
小学校の頃「進研ゼミ」の勧誘がよく届いていた。「テストに出るとこだけ!」「効率よく学べる!」「部活が忙しくても100点とれる」という謳い文句が多かった。それを見るたび、惹かれつつも、「それじゃあ雑学王にはなれないよな」と引っかかっていたことを思い出す。
「学ぶ」ということは、知識を暗記して吐き出すことではなく、「わけの分からないものに興味を持ち、味わい、世界を広げること」ではないのか。

④参与観察/発酵とネガティブ・ケイパビリティ

ネガティブ・ケイパビリティと似ていると感じた態度がある。それは、文化人類学の調査手法の一つである「参与観察」と、私が卒業論文のテーマとした「発酵」だ。

まず前者の「参与観察」とは、「実際に現場の社会生活を体験しながら行う調査」だ。佐藤郁哉著『フィールドワークの技法ー問いを育てる、仮説をきたえるー』では次のような記述がある。

「フィールドワークの全体論的な方向、つまり、生身の人間の行動、あるいは文化や社会の複雑な成り立ちに必然的に含まれる矛盾や非一貫性を、とりあえずはまずそのまま丸ごと捉えようとするフィールドワーカーの基本的な姿勢」
「フィールドワーカーは、そういう矛盾や非一貫性をできあいの概念や理論を使って性急に単純化したり抽象化したりして切り捨ててしまおうとはしません

つまり「参与観察」は、簡単に言えば「とりあえず飛び込んでみる」調査だ。書いていて気付いたが、「似ている」というよりも、「参与観察にはネガティブ・ケイパビリティの態度が必要」という関係性か。

そして後者の「発酵」について。ここでいう「発酵」は食品のことではない。「人間関係やアイデアなど、あらゆる物事は熟成され、深みが増す」ということを指す。思いついたアイデアも、すぐ実行に移しては、ありきたりで浅はかな成果物になってしまうかもしれない。一旦寝かした方が、もっと良いものができるかもしれない。

性急に物事を進めようとせず、「宙ぶらりん状態に耐える」こと。
相も変わらず堂々巡り多き私だが、ネガティブ・ケイパビリティを持ち、鷹揚に構えて生きたいと感じた一冊だった。

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