「偶発的」な子ども

今日の学び

Contingency
直訳すると、偶発・機会・チャンス・運命。
他にも、頼る・条件付き。

「子ども」は、時・場によって違う。
その時、その場所の子どもは、偶発的な存在。

Time/History
Children as being:その時を生きている存在。
Childhood:移り変わる存在。

同じ「子ども」でも、どの時期を生きているかで違う存在。
中世だと、子どもは「小さな大人」だった。
絵画を見ても、大人と子どもでは身長が違うだけで、表情などは大人と同じように描かれている。そこから、ルソーの「エミール」によって、「子どもの発見」という考えが社会に広がり、大人とは違う存在になった。
そこから、「大人のあるべき姿」「子どものあるべき姿」なども確立していった。

その後、産業革命期だったら「労働力」として、19世紀には「研究対象」、20世紀には「脆弱」な存在へと、時代と共に変化をしている。

Space/Place 
子どもが、子どもの面倒を見ている地域。
→面倒を見ている子は、子どもとして認識されていない。

児童労働によって作られた安価なファーストファッションを、裕福な家庭の子どもが着ている。
→児童労働をしている国と、着ている国によって「子ども」の捉え方が違う。

時・場所によって変化してきた「子ども」と環境
生産者(児童労働者)→消費者(「ママ、買って〜!」とお願いする立場)
異質(研究対象)→標準(規律に従う)

公の場は自由な場→危険な場
統合(地域の人もみんな「家族」)→乖離(自立と独立)

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自分の中での不明点

・Wellsが提唱している、localとglobalについて

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個人的見解

時代と場所によって、「子ども」の認識が違うって、当たり前だけど面白い。

Julian Brannenの“Childhood Across Generations”の論文は、3世代の母親の子供時代を振り返っていて。第一世代の人は、第一次世界大戦中で物質的不足の中、兄弟の面倒も見ないといけないけど、親からの制限も少なくて、どこへでも遊びに行けた世代。第二世代は、第二次世界大戦中で、母親が家にどれだけいるか=子どもの幸せと捉えられていた世代。第三世代は、物質的には満たされているけど、自立、家族との質の高い時間を大事にする世代。

こうやって、その生きている時代によって「子ども」として生きる範囲が違うし、もっというと、Xin Guoの“Shifting traditions of child-rearing in Chilna: 3 generations”みたいに、同じように3世代の比較をしているんだけど、中国って国が変われば子どもの捉え方も全然違って。(私はまだ読めていない。。)

そう考えると、今の西洋諸国の「子ども」は、「一市民としての存在」として捉えられている気がする。いかに、一市民としての子どもの発言を、どのように社会が真摯に受け止めるか、むしろ大人が受け止めるっていうのすらおかしいのではっていう考えが広がっている。そういう意味では、「小さな大人」の時代に逆戻りしているようにも感じちゃう。

ちなみに、「子どもって〜ジャン?」とかって誰かに言われたら、「いつの時代の、どこの子どものことを話していますか?」って反応するのが正しい子ども学者としての反応らしい。今度実践してみよ。

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