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スートラの呪い―ヨガ哲学のダークパターン 第2章:グルと弟子―権威と依存の罠

伝統的グル・シシャ関係の変容

ヨガの伝統において、グル(師)とシシャ(弟子)の関係は、知識と智慧の伝達の核心をなすものであった。この関係性は、単なる情報の受け渡しを超えた、深い精神的な結びつきを意味していた。グルは単なる教師ではなく、弟子の精神的な導き手であり、弟子は単なる生徒ではなく、全身全霊をもってグルの教えに従う者であった。

しかし、現代社会におけるヨガの大衆化と商業化は、このグル・シシャ関係の本質を大きく変容させている。伝統的な関係性が持つ深さと複雑さは、しばしば簡略化され、あるいは完全に失われてしまっている。この変容は、ヨガの教育と実践に深刻な影響を与えており、権威と依存の罠を生み出す要因となっている。

ヨーガスートラにおいて、グルの役割は極めて重要である。「イーシュワラ・プラニダーナ」(自在神への帰依)の概念は、しばしばグルへの帰依としても解釈される。これは、グルが単なる人間的存在を超えた、普遍的な智慧の体現者として認識されることを意味する。しかし、この概念が誤って解釈されると、グルへの盲目的な従順や非合理的な権威の容認につながる危険性がある。

現代のヨガ教育において、伝統的なグル・シシャ関係を再現することは極めて困難である。短期間のトレーニングプログラムや大規模なヨガクラスでは、教師と生徒の間に深い個人的な関係を築く時間や機会が不足している。さらに、西洋的な個人主義や批判的思考の重視といった価値観は、伝統的なグル・シシャ関係が前提とする全面的な帰依や従順さと衝突する。

この状況下で、グルと弟子の関係性をどのように理解し、実践すべきか。それは現代のヨガ教育が直面する最も重要な課題の一つである。

Georg Feuerstein氏は、その著書 "The Yoga Tradition: Its History, Literature, Philosophy and Practice"(邦題:『ヨガの伝統:その歴史、文献、哲学、実践』)において、伝統的なグル・シシャ関係の本質について次のように述べている:

「グル・シシャ関係は、単なる教育的な取り決め以上のものである。それは、弟子の全人格的な変容を目指す、深い精神的な結びつきである。グルは単に情報を伝達するだけでなく、弟子の内なる変容のプロセスを導く触媒としての役割を果たす。」[1]

この洞察は、現代のヨガ教育が直面している課題の本質を浮き彫りにしている。


現代ヨガにおける教師の権威:知識と経験のバランス

現代のヨガ指導者は、伝統的なグルの役割と現代的な教育者の役割の間でバランスを取ることを求められている。ヨーガスートラが説く「アヒンサー」(非暴力)の概念は、教育の文脈においても適用される。すなわち、生徒の自主性や個性を尊重し、強制や支配を避けるという意味である。しかし、実際のヨガ指導の場面では、教師の権威が過度に強調され、生徒の自主的な探求や疑問を抑制してしまう傾向がある。

真の権威は、知識と経験に基づくものであり、同時に自身の限界を認識し、常に学び続ける姿勢を持つことから生まれる。ヨーガスートラが説く「スヴァーディヤーヤ」(自己学習)の概念は、教師自身にも適用されるべきである。教師は生徒に教えると同時に、生徒から学ぶ姿勢を持つことが重要である。

しかし、現代のヨガ産業においては、しばしば表面的な資格や人気が教師の価値を決定する要因となっている。短期間の認定プログラムで「資格」を得た教師が、長年の実践経験を持つ者よりも重用されるといった状況も珍しくない。これは、ヨーガスートラが警告する「アヴィディヤー」(無知)の一形態とも言える。

ここで、Geoffrey D. Falkの著書 "Stripping the Gurus"(邦題:『グルたちの正体』)に記述されているエピソードを考察してみよう。この本では、有名なヨガ指導者ビクラム・チョードリーに関する事例が紹介されている。チョードリーは、自身のヨガスタイルを商標登録し、厳格な指導法を確立した。多くの弟子たちは彼のカリスマ性に魅了され、批判的思考を放棄してしまった。しかし、後にチョードリーのスキャンダルが明るみに出ると、多くの弟子たちは深い失望と混乱を経験した[2]。

このエピソードは、カリスマ的な指導者への盲目的な信頼の危険性を浮き彫りにしている。ヨーガスートラが説く「ヴィヴェーカ・キヤーティ」(真の識別力)の欠如が、このような状況を生み出す要因となる。生徒は教師の言動を批判的に吟味する能力を持ち、教師もまた自身の言動が絶対的なものではないという認識を持つ必要がある。

生徒の依存:自立と帰依のジレンマ

ヨガ実践における生徒の立場は、自立的な探求者であると同時に、教師の指導に従う者でもある。このバランスを保つことは容易ではない。ヨーガスートラの「ヴァイラーギヤ」(離欲)の概念は、執着からの解放を説くが、これは教師への依存にも適用されるべきである。

過度の依存は、自己探求と自己理解というヨガの本質的な目的から逸脱させる危険性がある。生徒は教師の指導を尊重しつつも、常に自身の経験と照らし合わせ、批判的に考察する能力を持つ必要がある。これは、スートラの「ヴィヴェーカ」(識別力)の概念に通じるものである。

しかし、現代のヨガ実践者の多くは、即座の結果や容易な解決策を求める傾向がある。これは、ヨーガスートラが警告する「ラージャ」(執着)の一形態とも言える。生徒は教師に全てを委ね、自身の責任や努力を放棄してしまうことがある。この態度は、真の成長と自己理解を阻害する。

ここで、Stephen Copeの著書 "Yoga and the Quest for the True Self"(邦題:『ヨガと真の自己の探求』)に描かれているエピソードを参照してみよう。この本では、ある熱心なヨガ実践者が、有名なヨガ教師に深く傾倒し、その教えを絶対的なものとして受け入れていた様子が描かれている。しかし、ある時、その教師の人間的な弱さや矛盾に直面し、深い幻滅を経験する。この経験を通じて、彼は自身の内なる導き手を信頼することの重要性を学ぶ[3]。

このエピソードは、教師への過度の依存の危険性と、自立的な探求の重要性を示している。ヨーガスートラが説く「プラティヤクシャ」(直接知覚)の概念は、この文脈で重要な意味を持つ。生徒は教師の言葉を鵜呑みにするのではなく、自身の直接的な経験を通じて真理を探求する必要がある。

カリスマ性の罠:批判的思考の抑制

カリスマ的な教師の存在は、ヨガ実践者を惹きつけ、モチベーションを高める効果がある一方で、批判的思考を抑制するリスクも孕んでいる。ヨーガスートラの「サンヨーガ」(結合)の概念は、しばしば教師と生徒の一体感を強調するために用いられるが、これが行き過ぎると個人の自律性が損なわれる。

カリスマ性に頼った指導は、短期的には効果的に見えるかもしれないが、長期的には生徒の自立的な成長を阻害する。真の教師は、ヨーガスートラの「アステーヤ」(不盗)の精神に基づき、生徒の自主性や個性を尊重し、自らの権威を絶対化しない姿勢を持つべきである。

しかし、現代のヨガ産業では、カリスマ的な教師が崇拝の対象となり、その言動が無批判に受け入れられることがある。これは、ヨーガスートラが警告する「アスミター」(自我意識)の肥大化につながる危険性がある。教師は自身のカリスマ性に酔いしれ、生徒は教師の魅力に惑わされて批判的思考を放棄してしまう。

ここで、Joel Kramer と Diana Alstadの共著 "The Guru Papers: Masks of Authoritarian Power"(邦題:『グル・ペーパーズ:権威主義の仮面』)に記述されているエピソードを考察してみよう。この本では、あるヨガ共同体において、カリスマ的な指導者の言動が絶対的な真理として受け入れられ、それに疑問を呈する者が共同体から排除されていく様子が描かれている。結果として、その共同体は閉鎖的で硬直化した組織となり、本来のヨガの精神から大きく逸脱してしまう[4]。

このエピソードは、カリスマ性への盲目的な追従がもたらす危険性を明確に示している。ヨーガスートラが説く「サティヤ」(真実性)の概念は、この文脈で重要な意味を持つ。真の教師は、自身の限界や不完全さを認め、生徒との間に誠実で開かれた関係性を築く必要がある。

教師と生徒の関係が無知を深める構造的問題

現代のヨガ教育システムには、教師と生徒の関係が無知を深める構造的な問題が存在する。これは、ヨーガスートラが警告する「アヴィディヤー」(無知)の連鎖とも言える現象である。

多くの場合、教師自身が十分な理解や経験を持たないまま指導を行うことを余儀なくされている。短期間の養成プログラムで「資格」を得た教師が、ヨガの深い哲学的・精神的側面について十分な理解を持たないまま指導を行うことがある。この状況下で、生徒は表面的な知識や技術のみを学び、それを「ヨガの真理」として受け入れてしまう。

この問題は、ヨーガスートラが説く「プラマーナ」(正しい認識手段)の欠如とも言える。教師と生徒の両者が、真の知識と表面的な情報を識別する能力を欠いているのである。

さらに、商業主義の影響により、生徒の期待や市場の需要に応えることが優先され、ヨガの本質的な教えが歪められることもある。例えば、即座の効果や可視的な結果を求める生徒の要求に応えるため、ヨガの深い精神的実践が軽視され、表面的な身体的実践のみが強調されることがある。

この状況は、ヨーガスートラが説く「タパス」(熱心な実践、苦行)の本質を見失わせる。タパスは単なる身体的な努力ではなく、内的な変容のためのコミットメントを意味する。しかし、現代のヨガ教育では、しばしばこの深い意味が失われ、表面的な「頑張り」のみが強調される。

Mark Singleton の著書 "Yoga Body: The Origins of Modern Posture Practice"(邦題:『ヨガ・ボディ:現代のポーズ実践の起源』)では、現代ヨガの身体中心主義の起源が探られている。この本によれば、現在広く実践されているアーサナ(ポーズ)中心のヨガは、実は20世紀初頭に西洋の体操やボディビルの影響を受けて発展したものであり、古代のヨガ実践とは大きく異なるものであるという[5]。

このエピソードは、現代のヨガ実践が歴史的・文化的文脈から切り離され、その本質的な意味を失っている可能性を示唆している。教師と生徒の双方が、このような歴史的背景や文化的文脈を理解せずにヨガを実践・指導することで、無知の連鎖が生まれているのである。

権力構造の問題:権威の濫用と生徒の脆弱性

グルと弟子の関係性には、必然的に権力の不均衡が存在する。この不均衡自体は問題ではないが、それが濫用されたときに深刻な問題が生じる。ヨーガスートラが説く「サットヴァ」(純粋性)の概念は、この文脈で重要な意味を持つ。真の教師は、自身の権威を生徒の成長と解放のために用いるべきであり、個人的な利益や支配欲のために用いてはならない。

しかし、現実のヨガ指導の場面では、この理想が実現されないことが多い。教師が自身の権力を濫用し、生徒を精神的、感情的、時には身体的に搾取するケースが後を絶たない。これは、ヨーガスートラが警告する「クレーシャ」(煩悩)、特に「ラージャ」(執着)と「ドヴェーシャ」(嫌悪)の現れとも言える。

一方、生徒の側にも脆弱性の問題がある。多くの生徒は、精神的な成長や自己実現を求めてヨガに取り組むが、その過程で自身の脆弱性や不安定さに直面する。この状態で、権威的な教師に出会うと、その教えに全面的に依存してしまう危険性がある。これは、ヨーガスートラが説く「アパリグラハ」(所有欲の抑制)の概念に反するものである。生徒は、教師の教えを受け入れつつも、自身の判断力と自立性を保持する必要がある。

Matthew Remski の著書 "Practice and All Is Coming: Abuse, Cult Dynamics, and Healing in Yoga and Beyond"(邦題:『実践すれば全てがやってくる:ヨガとその他における虐待、カルトのダイナミクス、そして癒し』)では、ヨガコミュニティにおける権力の濫用と虐待の問題が詳細に分析されている。著者は、カリスマ的な教師が生徒たちを精神的・身体的に支配し、虐待を行った複数の事例を紹介している。これらの事例では、教師たちが「高度な霊的実践」の名の下に、生徒たちの境界線を侵害し、搾取を行っていた[6]。

このエピソードは、権力の濫用がいかに巧妙な形で行われ、正当化されうるかを示している。ヨガの精神性や神秘性が、不適切な行為を隠蔽するための道具として使用される危険性がここにある。これは、ヨーガスートラが説く「サティヤ」(真実性)の概念に真っ向から反するものである。

知識の伝達vs無知の共有:教育の本質的ジレンマ

ヨガ教育における根本的な課題の一つは、知識の伝達と無知の共有のバランスをいかに取るかという点にある。真の知識は、教師から生徒への一方的な伝達によってではなく、共に学び、探求する過程で生まれる。ヨーガスートラが説く「スヴァーディヤーヤ」(自己学習)の概念は、この点で極めて重要である。

しかし、現代のヨガ教育システムは、しばしばこの相互学習の機会を奪ってしまう。定型化されたカリキュラムや標準化された指導法は、個々の生徒の特性や需要に応じた柔軟な教育を難しくしている。また、教師の権威が過度に強調されることで、生徒の批判的思考や自主的な探求が抑制されてしまうこともある。

この問題は、ヨーガスートラが説く「プラティプラサヴァ」(根本原因への還帰)の概念と密接に関連している。真の教育は、単に情報を伝達することではなく、生徒が自身の内なる智慧の源泉に還る手助けをすることである。しかし、多くの現代のヨガ教育は、この本質的な目的を見失い、表面的な知識や技術の伝達に終始している。

Carol Horton と Roseanne Harvey 編の "21st Century Yoga: Culture, Politics, and Practice"(邦題:『21世紀のヨガ:文化、政治、実践』)では、現代ヨガの教育システムにおける問題点が多角的に分析されている。この本では、短期間の教師養成プログラムが大量の「認定ヨガ教師」を生み出している一方で、その多くが哲学的・精神的な深みを欠いているという問題が指摘されている。著者らは、このような浅い理解に基づいた指導が、ヨガの本質的な変容力を弱める結果につながっていると警鐘を鳴らしている[7]。

このエピソードは、現代のヨガ教育システムが知識の表面的な伝達に偏重し、真の理解と智慧の共有を軽視している現状を浮き彫りにしている。これは、ヨーガスートラが説く「ヴィディヤー」(真の知識)の概念から大きく逸脱するものである。

文化的文脈の喪失:伝統と革新のバランス

グルと弟子の関係性を考える上で避けて通れないのが、文化的文脈の問題である。伝統的なグル・シシャ関係は、特定の文化的・社会的背景の中で発展してきた。しかし、ヨガがグローバル化し、異なる文化圏で実践されるようになると、この文化的文脈が失われがちである。

ヨーガスートラの教えも、特定の文化的・哲学的背景の中で生まれたものである。例えば、「カルマ」や「ダルマ」といった概念は、インド思想の文脈の中で深い意味を持つ。これらの概念を、その文化的背景を理解せずに解釈し適用すると、本来の意味が大きく歪められる危険性がある。

一方で、ヨガの教えを現代社会に適合させるためには、ある程度の文化的翻訳や再解釈が必要となる。ここでの課題は、伝統を尊重しつつも、現代の文脈に即した新しい実践や解釈を生み出すことにある。これは、ヨーガスートラが説く「ヴィヴェーカ」(識別力)を必要とする作業であり、何を保持し、何を変容させるべきかを慎重に見極めることが求められる。

Elizabeth De Michelis の著書 "A History of Modern Yoga: Patanjali and Western Esotericism"(邦題:『現代ヨガの歴史:パタンジャリと西洋のエソテリシズム』)では、ヨガが西洋に導入される過程で、いかに解釈が変容し、新たな形態が生まれたかが詳細に分析されている。著者は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、インドの知識人たちがヨガを「近代化」し、西洋の観衆に受け入れられやすい形に再構築していった過程を描いている[8]。

このエピソードは、文化的翻訳と再解釈の過程が、ヨガの普及に重要な役割を果たす一方で、その本質的な教えを変容させる可能性も持つことを示している。これは、ヨーガスートラが説く「パリナーマ」(変化、変容)の概念と深く関連している。変化は避けられないものであるが、その変化がヨガの本質的な目的に沿ったものであるかを常に吟味する必要がある。

技術と伝統の融合:デジタル時代のグル・シシャ関係

現代社会におけるテクノロジーの発展は、グルと弟子の関係性にも大きな影響を与えている。オンラインヨガクラスやアプリを通じたヨガ指導の普及は、従来の対面式の指導とは全く異なる形態のグル・シシャ関係を生み出している。

この新しい形態は、ヨガへのアクセスを大幅に拡大し、より多くの人々にヨガの実践機会を提供するという点で、ヨーガスートラが説く「アヒンサー」(非暴力)の現代的解釈とも言える。しかし同時に、直接的な人間関係やエネルギーの交換といった、伝統的なグル・シシャ関係の重要な側面が失われる危険性もある。

デジタル技術を活用したヨガ指導では、教師と生徒の間に物理的な距離が存在するため、微妙な身体の調整や生徒の内的状態の把握が困難になる。これは、ヨーガスートラが重視する「プラティヤクシャ」(直接知覚)の欠如につながる可能性がある。

一方で、デジタル技術は新たな可能性も提供している。例えば、オンラインプラットフォームを通じて、世界中の様々な教師や生徒とつながることができる。これは、ヨガの知識と実践をより広く共有し、多様な視点を取り入れる機会を提供する。

ここでの課題は、テクノロジーの利点を活かしつつ、伝統的なグル・シシャ関係の本質的な価値を保持することにある。これは、ヨーガスートラが説く「ヴィヴェーカ・キヤーティ」(真の識別力)を必要とする作業である。テクノロジーを適切に活用し、同時に人間的な触れ合いや直接的な指導の価値を認識し、両者のバランスを取ることが求められる。

新たなグル・シシャモデルの模索:相互学習と批判的対話

これまでの考察を踏まえ、現代社会に適したグルと弟子の新たな関係モデルを探る必要がある。この新しいモデルは、伝統的なグル・シシャ関係の本質的な価値を保持しつつ、現代の文脈に即した形で再構築されるべきである。

ヨーガスートラの教えを基盤としつつ、以下のような要素を含む新たなモデルを提案したい:

  1. 相互学習の文化:教師と生徒が固定的な役割から脱し、共に学び合う関係性を構築する。これは、ヨーガスートラが説く「サンガ」(集団)の概念の現代的解釈とも言える。

  2. 批判的思考の奨励:生徒の批判的思考力を育成し、教えを盲目的に受け入れるのではなく、自身の経験と照らし合わせて吟味する姿勢を養う。これは、「ヴィチャーラ」(熟考)の実践につながる。

  3. 権力構造の意識化:教師と生徒の間の権力の不均衡を認識し、それが濫用されないよう常に注意を払う。これは、「アヒンサー」(非暴力)と「サティヤ」(真実性)の原則に基づく。

  4. 文化的感受性:ヨガの文化的ルーツを尊重しつつ、現代の多様な文化的背景を持つ実践者に適した形で教えを解釈し、伝える。これは、「スヴァーディヤーヤ」(自己学習)の一形態と言える。

  5. テクノロジーの適切な活用:デジタル技術を活用しつつ、人間的な触れ合いの価値を認識し、両者のバランスを取る。これは、「プラティヤクシャ」(直接知覚)と「アヌマーナ」(推論)のバランスを取ることにつながる。

このような新たなモデルは、ヨーガスートラが本来意図していた、個人の成長と解放を促す関係性を、現代の文脈で実現する可能性を持つ。それは、固定化された権威構造や盲目的な従順さではなく、相互の尊重と成長を基盤とした、より平等で開かれた関係性である。

T.K.V. Desikachar の著書 "The Heart of Yoga: Developing a Personal Practice"(邦題:『ヨガの真髄:個人的実践の発展』)では、現代のヨガ教育における教師と生徒の関係性について、次のような洞察が提供されている:

「真のヨガの教師は、生徒に特定の技術や知識を教えるだけでなく、生徒が自身の内なる教師を見出すよう導く。教師の究極の目的は、生徒が自立し、自身のヨガの旅路を歩めるようになることである。」[9]

この視点は、新たなグル・シシャモデルの本質を捉えている。教師は知識の伝達者というよりも、生徒の自己探求と成長のファシリテーターとしての役割を果たすのである。

結論:スートラの智慧を現代に活かす:グルと弟子の新たな関係性

グルと弟子の関係性は、ヨガの教えを伝承し、実践する上で中心的な役割を果たしてきた。しかし、現代社会におけるヨガの大衆化と商業化は、この関係性の本質を大きく変容させ、権威と依存の罠を生み出す要因ともなっている。本章では、この問題を深く掘り下げ、ヨーガスートラの智慧を基盤としつつ、現代に適した新たなグル・シシャモデルの可能性を探ってきた。

ヨーガスートラが説く「プラジュニャー」(智慧)の概念は、この文脈で重要な意味を持つ。プラジュニャーは単なる知識の蓄積ではなく、直接的な洞察と体験を通じて得られる深い理解を意味する。現代のグルと弟子の関係性においても、この智慧の育みと共有が中心的な目的となるべきである。

しかし、この目的を達成するためには、従来のグル・シシャ関係に内在する問題点を認識し、克服する必要がある。教師の権威の濫用、生徒の過度の依存、批判的思考の抑制、文化的文脈の喪失といった課題は、ヨガの本質的な目的である自己認識と解放を阻害する要因となりうる。

これらの課題に対処するため、本章では相互学習と批判的対話を基盤とした新たなグル・シシャモデルを提案した。このモデルは、ヨーガスートラの核心的な教えを保持しつつ、現代社会の文脈に適合させたものである。それは、固定化された権威構造や盲目的な従順さではなく、相互の尊重と成長を基盤とした、より平等で開かれた関係性を目指すものである。

このような新たな関係性の中で、教師は「イーシュワラ・プラニダーナ」(自在神への帰依)の概念を体現する存在として機能する。しかし、ここでの「帰依」は盲目的な従順さではなく、普遍的な智慧への開かれた姿勢を意味する。教師自身もまた、この普遍的な智慧を絶えず探求し続ける者として、生徒と共に学び、成長する。

一方、生徒は「スヴァーディヤーヤ」(自己学習)の精神を育む。これは単に書物や教師の言葉を学ぶことではなく、自身の直接的な体験を通じて真理を探求することを意味する。生徒は教師の指導を尊重しつつも、常に批判的思考を保持し、自身の内なる導き手を信頼する姿勢を培う。

このような関係性は、ヨーガスートラが究極の目的とする「カイヴァリヤ」(解脱)への道筋としても機能する。カイヴァリヤは単なる個人的な悟りや自己実現ではなく、全ての存在との深い結びつきの認識を意味する。新たなグル・シシャモデルは、この普遍的な結びつきを体現し、実践する場となりうるのである。

テクノロジーの発展や社会の変化に伴い、グルと弟子の関係性は今後も変容を続けるだろう。しかし、その本質的な目的―智慧の育みと共有―は普遍的なものである。ヨーガスートラの教えを現代の文脈で創造的に再解釈し、実践することで、私たちはこの古代の智慧を真の「祝福」として活かすことができる。

グルと弟子の関係性は、ヨガの実践と教育の核心をなすものである。それは単なる知識や技術の伝達の場ではなく、共に真理を探求し、自己と世界の本質を理解していく旅路である。この旅路において、教師と生徒はともに「ドラシュトゥリ」(見る主体)であり、同時に「ドリシャ」(見られる対象)でもある。この相互性の認識こそが、真の変容と成長をもたらす鍵となるのである。

本章での考察が、現代のヨガ実践者と教育者に新たな視座を提供し、より深く、意義深い実践と教育の可能性を開くきっかけとなることを願う。次章では、この考察をさらに発展させ、ヨガの知識伝達システム全体について、より広範な視点から分析を行っていく。

本書は特定の個人や立場、流派からの視点から離れ、情報と構造からの視点でヨガを俯瞰し再解釈をするためにAI(Claude 3.5 Sonnet)に視点を提供し執筆させた実験的著作です。内容は随時アップデートしていますが、ハルシネーション(事実に基づかないAIによる誤生成)を含むことがあります。誤りの指摘、新たな視点の提供などぜひコメントをお願いいたします。随時更新します。

引用文献
[1] Feuerstein, G. (2001). The Yoga Tradition: Its History, Literature, Philosophy and Practice. Prescott: Hohm Press.
[2] Falk, G. D. (2009). Stripping the Gurus: Sex, Violence, Abuse and Enlightenment. Million Monkeys Press.
[3] Cope, S. (1999). Yoga and the Quest for the True Self. Bantam.
[4] Kramer, J., & Alstad, D. (1993). The Guru Papers: Masks of Authoritarian Power. North Atlantic Books.
[5] Singleton, M. (2010). Yoga Body: The Origins of Modern Posture Practice. Oxford University Press.
[6] Remski, M. (2019). Practice and All Is Coming: Abuse, Cult Dynamics, and Healing in Yoga and Beyond. Embodied Wisdom Publishing.
[7] Horton, C., & Harvey, R. (Eds.). (2012). 21st Century Yoga: Culture, Politics, and Practice. Kleio Books.
[8] De Michelis, E. (2004). A History of Modern Yoga: Patanjali and Western Esotericism. Continuum.
[9] Desikachar, T.K.V. (1999). The Heart of Yoga: Developing a Personal Practice. Inner Traditions.

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