[コラム]意図せぬヨーギーたち:現代社会が育む無意識の求道
はじめに:静寂からの呼びかけ
人類の歴史において、内なる平和と真理の探求は常に存在してきた。その探求の一形態であるヨガは、古代インドの叡智から生まれ、時代と共に進化を遂げながら、今や世界中で実践されている。しかし、その普及の過程で、ヨガの本質的な目的である解脱、すなわち精神的な束縛からの解放という概念は、しばしば背景に押しやられてきた。
本稿では、現代のヨガ実践、特にRegistered Yoga Teacher(RYT)制度の成立と発展、そしてヨガ雑誌の普及という文脈の中で、ヨガの本質的な目的がどのように扱われ、変容してきたかを探究する。同時に、インストラクターと生徒の双方が、意識的あるいは無意識的に、この本質的な目的に引き寄せられている可能性について考察する。
さらに、本質的なヨガに目覚めた実践者たちが、ヨガの全体像を無意識に支えている人々に向ける批判的な眼差しについても深く掘り下げる。その批判の根底にある欺瞞性を識別し、それを超えてさらなる成長を目指す道筋を探る。
この探求の旅において、我々はバガヴァッドギーターの教えを導きの糸として用いる。なぜなら、この古典的テキストは、行動の中での解脱、すなわち日常生活の中で精神的真理を実現する方法を説いているからだ。現代のヨガ実践者たちも、たとえ明確に意識していなくとも、同様の道を歩んでいるのかもしれない。
RYTの成立と現代ヨガの変容
1999年、アメリカでYoga Allianceが設立され、Registered Yoga Teacher(RYT)制度が始まった。この制度の主な目的は、ヨガ指導の質を標準化し、安全性を確保することだった。しかし、この標準化の過程で、ヨガの精神的・哲学的側面が希薄化されていったという指摘もある。
RYT 200時間プログラムでは、ヨガの哲学や倫理に関する学習時間が設けられているものの、その多くはアーサナ(ポーズ)の指導技術や解剖学的知識に費やされる。これは、現代社会のニーズに応えるための必然的な変化であったと言えるかもしれない。しかし、この変化は同時に、ヨガの本質的な目的である解脱や自己実現の追求を、やや後景に押しやってしまった感がある。
ヨガの研究者であるエリザベス・デ・ミケリス(Elizabeth De Michelis)は、その著書 "A History of Modern Yoga"(『現代ヨガの歴史』)の中で、現代ヨガが「身体中心のヨガ」へと進化していく過程を詳細に分析している。彼女は、19世紀末から20世紀にかけて、ヨガが西洋に導入される過程で、身体的健康や精神的ウェルビーイングを強調する傾向が強まっていったことを指摘している[1]。
この傾向は、RYT制度の成立と発展にも反映されている。多くのRYTプログラムは、生徒たちに安全で効果的なヨガの指導方法を教えることに主眼を置いている。これ自体は重要な目標であるが、同時にヨガの深い精神的側面を十分に探求する機会を制限してしまう可能性がある。
しかし、ここで思い出すべきは、バガヴァッドギーターが説く「カルマ・ヨーガ」の教えだ。この教えは、日常の行動の中で精神的真理を実現することの重要性を説いている。つまり、たとえ表面的にはフィットネスや健康に焦点を当てたヨガの指導であっても、その実践の中に深い精神的真理を織り込むことは可能なのだ。
実際、多くのヨガインストラクターは、自覚していないながらも、この「カルマ・ヨーガ」的なアプローチを採用している。彼らは、アーサナの指導を通じて、生徒たちに身体と心の結びつきを意識させ、呼吸と動きの調和を通じて「今、ここ」に集中することの重要性を教えている。これは、まさにバガヴァッドギーターが説く「行動の中の瞑想」の一形態と言えるのではないだろうか。
ヨガ雑誌の役割と影響
ヨガの普及において、雑誌やメディアの果たした役割は極めて大きい。1975年に創刊された「Yoga Journal」は、アメリカにおけるヨガの大衆化に多大な貢献をした。この雑誌は、ヨガのポーズや健康効果に関する情報を提供すると同時に、ヨガの哲学や精神性に関する記事も定期的に掲載してきた。
しかし、商業的成功を収めるにつれ、「Yoga Journal」を含む多くのヨガ雑誌は、ヨガのライフスタイル的側面や美容効果を強調する傾向を強めていった。これは、より広い読者層を獲得するための戦略であったが、同時にヨガの本質的な目的である解脱や自己実現の追求を希薄化させる一因ともなった。
キャロル・ホートン(Carol Horton)は、その著書 "Yoga Ph.D.: Integrating the Life of the Mind and the Wisdom of the Body"(『ヨガ博士:心の生活と身体の叡智の統合』)の中で、現代ヨガの商業化と精神性の関係について深い考察を行っている。彼女は、ヨガの商業化が必ずしも悪いものではなく、むしろそれによってより多くの人々がヨガに触れる機会を得たと指摘している[2]。
確かに、ヨガ雑誌の普及は、多くの人々にヨガの存在を知らしめ、その実践を始めるきっかけを提供した。そして、たとえ最初は美容や健康のためにヨガを始めた人々も、実践を続けるうちに徐々にその深い精神的側面に気づいていくことがある。これは、バガヴァッドギーターが説く「段階的な精神的成長」の過程と類似している。
ギーターは、人々がそれぞれの段階や性質(グナ)に応じて真理を追求することの重要性を説いている。同様に、現代のヨガ実践者たちも、最初は身体的な目的でヨガを始めたとしても、徐々により深い精神的真理へと導かれていく可能性がある。
実際、多くのヨガ雑誌は、表面的には美容やフィットネスの記事が多いものの、その中に哲学的な考察や精神的な気づきに関する内容を巧みに織り込んでいる。例えば、アーサナの解説記事の中に、そのポーズが象徴する精神的な意味や、それを実践することで得られる内的な気づきについての言及が含まれていることがある。
これは、バガヴァッドギーターが説く「知性によるヨーガ(ブッディ・ヨーガ)」の現代的な適用と見ることもできるだろう。ギーターは、知性を通じて行動の本質を理解し、執着から解放されることの重要性を説いている。同様に、ヨガ雑誌の読者たちも、表面的には身体的な実践に関する情報を得ながら、同時にその背後にある深い哲学的意味を徐々に理解していく可能性がある。
無意識の探求者たち
ここで興味深いのは、多くのヨガ実践者が、必ずしもヨガの本質的な目的を明確に意識せずに実践を続けているという事実だ。彼らは、ストレス解消や柔軟性の向上、あるいは単純に「なんとなく気分が良くなる」といった理由でヨガを選択し、続けている。しかし、その選択の背後には、より深い精神的な探求への無意識の欲求が潜んでいるのではないだろうか。
スティーブン・コープ(Stephen Cope)は、その著書 "The Wisdom of Yoga: A Seeker's Guide to Extraordinary Living"(『ヨガの叡智:求道者のための非凡な生き方ガイド』)の中で、現代のヨガ実践者たちの内面的な旅路について深い洞察を提供している。彼は、多くの人々が最初は表面的な理由でヨガを始めるが、実践を続けるうちに徐々により深い変容を経験していく過程を描いている[3]。
この現象は、バガヴァッドギーターが説く「無我の行為(ニシュカーマ・カルマ)」の概念と通じるものがある。ギーターは、結果への執着なしに行為することの重要性を説いているが、多くのヨガ実践者たちも、明確な目的意識なしに実践を続けることで、徐々に内面的な変容を経験していくのだ。
同様に、多くのヨガインストラクターも、自分たちが宗教的あるいは精神的な教えを広めているという自覚なしに、ヨガの本質的な価値観を伝えている。彼らは、アーサナの指導やプラーナーヤーマ(呼吸法)の実践を通じて、生徒たちに「今、ここ」に集中すること、内なる静寂に耳を傾けること、自己と他者への慈悲の心を育むことの重要性を教えている。これらは、まさにヨガの核心的な精神的教えそのものだ。
フィリップ・ゴールドバーグ(Philip Goldberg)は、その著書 "American Veda: From Emerson and the Beatles to Yoga and Meditation - How Indian Spirituality Changed the West"(『アメリカン・ヴェーダ:エマーソンとビートルズからヨガと瞑想まで - インドの精神性が西洋をいかに変えたか』)の中で、ヨガや瞑想の実践が、気づかないうちに西洋の文化や思想に深い影響を与えてきた過程を詳細に分析している[4]。
この「無意識の影響」は、個人レベルでも同様に起こっている。多くのヨガ実践者たちは、単に身体を動かしているつもりが、実は深い精神的な実践を行っているのだ。例えば、アーサナの実践中に呼吸に集中することは、バガヴァッドギーターが説く「感覚の制御(プラティヤーハーラ)」の一形態と言える。同様に、シャヴァーサナ(屍のポーズ)で完全なリラックス状態に入ることは、「自我の放棄(アートマ・サマルパナ)」の実践と見ることができる。
このように、現代のヨガ実践は、表面的にはフィットネスや健康増進を目的としているように見えても、その底流には深い精神的な探求が流れている。そして、このインストラクターと生徒双方の「無意識の探求」が、ヨガの本質を保ち、その普及を支えているのだ。
RYTの未来と課題
RYT制度は、ヨガの指導の質を一定水準に保つ上で重要な役割を果たしてきた。しかし、前述のように、この制度にはヨガの本質的な目的を十分に伝えきれていないという課題もある。では、この制度は今後どのように発展していくべきだろうか。
一つの方向性として、RYTプログラムにおいてヨガの哲学や精神性に関する教育をより充実させることが考えられる。これは、単に古典的なテキストを学ぶということではなく、それらの教えを現代の文脈でいかに理解し、実践に活かすかを探求することを意味する。
例えば、バガヴァッドギーターが説く「行為の中のヨーガ」の概念を、現代のヨガ指導の文脈でどのように実現できるかを探求することが重要だ。これは、単にアーサナを教えるだけでなく、その実践を通じて生徒たちに内的な気づきや精神的成長をもたらす方法を学ぶことを意味する。
デビッド・ゴードン・ホワイト(David Gordon White)は、その著書 "The Yoga Sutra of Patanjali: A Biography"(『パタンジャリのヨーガ・スートラ:その伝記』)の中で、古典的なヨガの教えが時代とともにいかに解釈され、適用されてきたかを詳細に分析している。彼は、ヨガの教えの本質を保ちつつ、それを現代の文脈で理解し直すことの重要性を強調している[5]。
この視点は、RYT制度の今後の発展にとって重要な示唆を与えている。つまり、古典的な教えを単に暗記するのではなく、それらを現代の生活や実践の中でいかに活かすかを探求することが求められているのだ。
同時に、RYT制度は、インストラクターたちが自身の役割をより深く理解し、その影響力を認識するための機会を提供する必要がある。多くのインストラクターは、自分たちが単に身体的な実践を教えているだけだと考えているかもしれない。しかし実際には、彼らは深い精神的な教えを、たとえ無意識的にではあれ、伝えているのだ。
この「無意識の宣教師」としての役割を認識し、それに伴う責任を理解することは、ヨガの本質をより効果的に伝える上で重要だ。バガヴァッドギーターが説くように、自己の義務(ダルマ)を理解し、それを果たすことは、精神的成長の重要な要素なのだ。
生徒たちの無意識の探求
一方、ヨガを実践する生徒たちの側にも、興味深い現象が見られる。多くの人々が、ストレス解消や健康増進といった表面的な理由でヨガを始めるが、実践を続けるうちに徐々により深い変容を経験していく。これは、彼らの内面に潜む、より深い真理や意味への渇望の表れではないだろうか。
サラ・パワーズ(Sarah Powers)は、その著書 "Insight Yoga"(『インサイト・ヨガ』)の中で、ヨガの実践が身体的なレベルから始まり、徐々により深い精神的な次元へと移行していく過程を詳細に描いている。彼女は、この過程が多くの実践者にとって無意識的に起こることを指摘している[6]。
この現象は、バガヴァッドギーターが説く「三つのグナ(性質)」の概念と通じるものがある。ギーターは、人々がそれぞれの性質(サットヴァ、ラジャス、タマス)に応じて行動し、徐々により高い状態へと進化していくことを説いている。同様に、ヨガの実践者たちも、最初は身体的な目的(ラジャス的)で始めたとしても、徐々により静寂で精神的な状態(サットヴァ的)へと導かれていくのだ。
興味深いのは、この過程が多くの場合、意識的な選択というよりも、実践そのものがもたらす自然な結果として起こるということだ。例えば、アーサナの実践を通じて身体への気づきが高まり、それが徐々に心の状態への気づきへと発展していく。あるいは、プラーナーヤーマの実践が、単なる呼吸の調整から、より深い瞑想的な状態への入り口となっていく。
これは、ヨガの実践そのものに内在する変容の力を示している。バガヴァッドギーターが説くように、真摯な行為(カルマ)そのものが、究極的には解脱(モークシャ)への道となるのだ。
無意識の相互作用がヨガを支える
ここで注目すべきは、インストラクターと生徒の双方に見られる、この「無意識の探求」が、現代ヨガの実践全体を支えているという事実だ。インストラクターたちは、自覚していないながらも深い精神的な教えを伝え、生徒たちは、明確に意識せずともその教えを吸収し、内面的な変容を経験している。
この無意識の相互作用は、バガヴァッドギーターが説く「ヨーガの普遍性」の概念と通じるものがある。ギーターは、あらゆる行為が、適切に行われれば、ヨーガになり得ることを説いている。同様に、現代のヨガクラスも、表面的にはフィットネスの場に見えても、実際には深い精神的な実践の場となっているのだ。
ゲオルグ・フォイアーシュタイン(Georg Feuerstein)は、その著書 "The Yoga Tradition: Its History, Literature, Philosophy and Practice"(『ヨガの伝統:その歴史、文献、哲学、そして実践』)の中で、ヨガの本質が時代や文化を超えて受け継がれてきた過程を詳細に分析している。彼は、ヨガの形式は変化しても、その核心的な教えは常に保たれてきたことを指摘している[7]。
この視点は、現代のヨガ実践を理解する上で重要だ。つまり、たとえRYT制度や商業的なヨガスタジオという現代的な形式を取っていても、その底流には常にヨガの本質的な教えが流れているのだ。そして、この本質的な教えが、インストラクターと生徒の無意識の相互作用を通じて、確実に受け継がれ、広まっているのである。
目覚めた者たちの批判的眼差し
しかし、ここで新たな問題が浮上する。ヨガの本質的な目的に目覚めた一部の実践者たちが、前述のような「無意識の探求」を行っている人々に対して批判的な眼差しを向けることがある。彼らは、フィットネスや健康のためだけにヨガを行う人々を「表面的」と批判し、RYT制度や商業的なヨガスタジオを「本来のヨガから逸脱している」と非難することがある。
この批判的な態度は、一見すると正当なものに思えるかもしれない。確かに、ヨガの深い精神的側面を無視し、単なる身体的な運動として扱うことは、その豊かな伝統を矮小化する危険性がある。
しかし、このような批判的な態度そのものが、実は新たな形の欺瞞である。バガヴァッドギーターは、「自分は悟っている」という思い込みこそが、真の悟りへの最大の障害になり得ることを警告している。同様に、「自分は真のヨガを理解している」という思い込みは、実はヨガの本質からさらに遠ざかることにつながる可能性がある。
ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh)は、その著書 "The Heart of the Buddha's Teaching"(『ブッダの教えの心髄』)の中で、真の悟りは他者を批判することではなく、すべての存在に対する深い理解と慈悲の心を育むことにあると説いている[8]。この視点は、ヨガの文脈にも完全に当てはまる。
批判を超えて:真の成長への道
では、本質的なヨガに目覚めた実践者たちは、どのようにしてこの批判的な態度を超えることができるだろうか。そして、その過程を通じて、どのようにさらなる成長を遂げることができるだろうか。
まず重要なのは、自己の批判的態度に気づくことだ。これは、バガヴァッドギーターが説く「自己観察(スヴァーディヤーヤ)」の実践そのものである。自分の中に生じる批判的な思考や感情を、判断せずに観察することで、私たちは自己の限界や偏見に気づくことができる。
次に、その批判の根底にある恐れや不安を識別することが大切だ。多くの場合、他者を批判する態度の背後には、自己の不安や自信のなさが隠れている。「真のヨガ」を守ろうとする姿勢の裏に、実は自己の実践や理解に対する不安が潜んでいるのだ。
さらに、バガヴァッドギーターが説く「すべての存在の中に神性を見る」という教えを思い出すことが重要だ。フィットネスのためにヨガを行う人々も、商業的なヨガスタジオで教えるインストラクターも、すべてが同じ神聖な存在の表れなのだ。彼らの実践や教えの中にも、確かにヨガの本質が流れているのを見出すことができるはずだ。
ラマ・スリヤ・ダス(Lama Surya Das)は、その著書 "Awakening the Buddha Within"(『内なる仏を目覚めさせる』)の中で、真の悟りは排他的なものではなく、包括的なものであると説いている[9]。この視点は、ヨガの実践においても非常に重要だ。本質的なヨガに目覚めた者こそ、あらゆる形態のヨガ実践の中に真理の断片を見出し、それを尊重することができるはずなのだ。
最後に、批判的な態度を慈悲と理解の態度に転換することが、さらなる成長への鍵となる。他者の実践を批判する代わりに、彼らの旅路を理解し、サポートすることができれば、それこそが真のヨガの実践となるだろう。バガヴァッドギーターが説くように、他者への無条件の愛と奉仕こそが、最高の精神的実践なのだ。
結論:静寂の中の真理
本稿では、RYT制度の成立と現状、ヨガ雑誌の影響、インストラクターと生徒の無意識の相互作用、そして本質的なヨガに目覚めた者たちの批判的態度とその超克について考察してきた。これらの現象は一見すると複雑で矛盾に満ちているように見えるかもしれない。
しかし、バガヴァッドギーターの教えを通して見ると、これらのすべてが、ヨガの真理が現代社会に適応し、広がっていく過程の一部であることが理解できる。ギーターが説くように、真理への道は多様であり、それぞれの個人や時代に応じた形を取るのだ。
現代のヨガ実践は、古典的な形式とは異なるかもしれない。しかし、その本質――内なる静寂を見出し、自己と宇宙との一体性を識別するという目的――は、依然として保たれている。それは、RYTプログラムの中で教えられるヨガ哲学の断片や、ヨガ雑誌の記事の行間に垣間見える精神性、そして何よりも、日々のヨガ実践がもたらす静かな変容の中にサンスカーラとして生き続けているのだ。
同時に、本質的なヨガに目覚めた者たちにとっては、他者の実践を批判することなく、すべての中にヨガの真理を見出す姿勢こそが、さらなる成長への道となる。これは、バガヴァッドギーターが説く「平等観(サマトヴァ)」の実践そのものだ。
最後に、バガヴァッドギーターの次の言葉を思い出そう。「ヨーガは熟練である」と。この「熟練」とは、単に身体的な技術や精神的な理解を指すのではない。それは、日々の生活の中で、常に内なる真理に気づき、それに従って行動する能力を指しているのだ。そして、この能力は、たとえ無意識的にであれ、現代のヨガ実践を通じて徐々に育まれているのである。
ヨガの進化は続く。その形式は時代とともに変化するかもしれない。しかし、その本質――静寂の中に真理を見出し、すべての存在との一体性を識別するという探求――は、これからも変わることなく、人々の心の奥深くで響き続けるだろう。そして、この探求の旅において、批判的な態度を超え、すべての実践者の中に真理の光を見出す姿勢こそが、真の成長への道筋となるのである。
パタンジャリのヨーガ・スートラの言葉を借りれば、「ヨーガとは、心の働きを止滅することである」。この定義は、古代から現代に至るまで、ヨガの本質を表現し続けている。現代のヨガ実践者たちも、たとえそれを明確に意識していなくとも、この「心の働きの止滅」という目的に向かって歩んでいるのだ。
そして、この歩みにおいて最も重要なのは、自己と他者への慈悲の心を育むことだ。バガヴァッドギーターが説くように、「すべての存在に対して友愛の心を持つ者、慈悲深い者、我執のない者、自我意識のない者、苦楽に平等な者、忍耐強い者」こそが、真のヨギーなのである。
私たちは皆、それぞれの道筋を通じて、この真理に向かって歩んでいる。フィットネスのためのヨガであれ、精神性を追求するヨガであれ、すべての実践の中に、この普遍的な真理への道が隠されているのだ。この識別こそが、ヨガの本質を理解し、真の成長を遂げるための鍵となるだろう。
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