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東京オリンピック・パラリンピック職員のレガシー


パリオリンピックが開幕した。
私は東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会の選手村担当の職員として2年間働いていた。パリでは100年ぶりのオリンピック。選手村の構想が誕生したのは1924年のパリオリンピック。選手村が100年受け継がれているのも感慨深い。そして何よりコロナ後のオリンピック。パリ市民が盛り上がっている様子や、開会式に30万人の観客が参加したなんてとても微笑ましい。

世界平和の祭典の直感


2013年にオリンピックオリンピック・パラリンピック(以下オリパラ)の開催が東京に決まったことをテレビで見た時に、私はこのオリパラに深く関わるだろうと、直感で感じた。
私は子供の頃からオリパラにとても興味があって、どうにかして関わりたいと思っていたのだ。理由はスポーツが好きだから、というだけでない。オリパラは世界平和の祭典だからだ。
障がいを抱えた弟がいた私にとって、命の大切さを小さい時から身近に感じていた。だから世界で戦争や飢餓が存在していることに、小さい時からどうにかして解決したい。それが私の使命なのだと思っていた。
そんな時にオリパラは世界平和のための世界で一番大きな祭典ということを知った。
公平な共通のルールの元、国を背負って他の国の選手と競ってスポーツをする。そこで世界中の選手との交流が生まれる。何て素敵なんだろうと思った。オリパラに関われば世界平和を実現させるためのヒントが得られるのではないかと思った。
2013年、オリパラの開催地が東京に決まった時から、どうにかして関われないかと試行錯誤した。最初はチアリーダーとして関われないかと思い、組織委員会の理事たち30人ほどに向けて手紙を送ったり、東京都職員になることも考えた。しかし手紙の返事は帰ってこず、都庁職員になっても組織委員会やオリパラ局に配属される可能性は低いので、いつか組織委員会の中から職員一般募集が始まるはずだと思い、その職員になる道に賭けた。
組織委員会の中には競技担当やチケット担当、マーケティングなどさまざまな部署があるが、私はどうしても選手村で働きたかった。
他のスポーツイベントになくて、オリパラにあるが、この選手村だ。全ての競技者、チーム役員、その他のチーム要員が一堂に会する目的のため、オリパラ組織委員会は選手村を用意することが義務付けられている。世界中の人が同じ場所で生活していく中で、国や地域を超えて交流し、友情が育まれる。それが世界の平和につながっていく。まさに小さな地球だ。ここで働くことができれば、世界の平和を作り出すヒントが得られるはずだと思った。

組織委員会職員への扉


そしてついに組織委員会から一般に向けて職員募集の扉が開き、さらに、さらに、選手村の職員募集の文字が出てきた。
渾身の履歴書を書き、送り、祈った。絶対に組織委員会の選手村の職員になると自分自身に誓った。
結果を待っている間、たまたまスリランカで孤児院、日本語学校でボランティアを募集していることを知り、折角なのでスリランカに渡った。(1時面接はオンラインが可能だったので)
スリランカではとても純粋な可愛い可愛い子供たちや、生徒の皆さんにかこまれてそれは心穏やかに過ごした。折角だからここであった子たちに世界を守るリーダーになってもらいたく、私なりの世界の平和の作り方を伝えた。
そして1時面接の知らせが届き、スリランカでオンライン面接を受け、その後最終面接の知らせが届いた。
すぐに日本に戻り、渾身の思いで最終面接に臨んだ。
最終面接後は、小刻みに震える手で、5分ごとに合否確認のためにメールを開いて祈る思いで待っていた。
そして、ついに、合格の通知が届いた。
飛び上がる思いとはこうゆうことかと思った。選んでいただいたからには、与えられた職務を全うして、必ずオリパラを成功に導くと再度自分自身に誓った。強い覚悟を持った。

選手村での準備


私が配属されたのは、選手村でアスリートにサービスを届ける部署だった。選手村には、居住棟と呼ばれる選手が寝泊まりするビル群と、病院やマーケット、食堂、郵便局や美容院などのビルなどが存在する。私は後者のビルを担当することになり、その中でも、選手や選手団に、サービスを提供する、サービスセンターというビルを管理することになった。
そのビルでは毎日のように選手団長、副団長向けの会議が開かれ、さらに選手、選手団に向けて競技の情報提供、選手村で生活する上で必要な、飲食、輸送、IT、出入国、財務、備品貸出などのサービスが提供される。
サービスを実際に提供するのは、これら約8つ部署で、これらの部署が私が管理するビルに入居するようなイメージだ。私の仕事はいわゆる大家さんのようなポジションだった。

私が担当するこのビルだけが選手村の中で既存の建物だったので(他の部署は0から新しく建てる)私の役割はそのビルを借りるための手続きや、警備や清掃などビルを管理運営するための調整、また、約8つの部署から必要な家具やIT機器、電気容量、必要面積、キープランなどを聞き出し、工事計設計図に反映させ、電気会社や建設会社と打ち合わせをしながら予算内に治るように交渉、調整をすることだった。
ビルを管理した経験は無なったので、設計図の読み方やビルの条例・法令、などをイチから勉強した。
また、私自身がサービスを提供するわけではないが、大家さんとしてどのようなサービスが提供されるのかを知る必要があるので、それぞれの部署と積極的に関わりながら、彼らが提供するサービスについてとことん学んだ。
さらに、国際オリンピック委員会・パラリンピック委員会(IOC \IPC)も入居するので、準備期間中にも彼らの想いにもたくさん触れたし、ビルの特性上選手村内の輸送ルートやアクセシビリティにも詳しくある必要があったので、必死に学んだ。そうこうしているうちに、ありがたいことに、選手村のことはこの人に聞け!とさまざまな部署から思われるまでになった。

コロナの感染拡大


私一人で交渉、調整することがあまりにも多かったので、仕事自体はとても大変だったが、なんとかそのゴールが見えてきた。
そんな時、コロナがやってきた。いろんな憶測が飛び交ったが、予定通り開催されるものだと思い、黙々と準備を進めてきたが、ついに延期が決まった。
テレビの報道では中止論が溢れた。それでも、自分自身を奮い立たせて、成功だけを信じて自分がすべきことにフォーカスした。オリパラ史上初めての延期。史上初めての感染症が世界で蔓延している中での開催。
契約書の再締結や、選手村内の感染症対策など、やるべき課題は膨大にあった。それでも安心、安全に選手、選手団が選手村で過ごすことができるように、自分なりに黙々と丁寧に仕事を進めた。

そんな中、最愛の弟が亡くなった。

心に大きすぎる穴が空いた。丸1週間、冷たくなった弟と時を共にした。東京で一人暮らしをしていた私は、コロナで埼玉の実家に帰ることもできず、弟が急変して入院しても面会もできなかった。だから、弟と過ごせたのは、この時が久しぶりだった。

私はこの弟の姉に生まれたからこそ世界の平和に興味をもち、だからこそオリパラに興味を持ち、オリパラの組織委員会で働きたいと思って行動した。
だから私が今向き合っている仕事も、そこで出会った方々も、全て弟のおかげだ。弟が生きたかった時間、想い、その分まで、私は今の職務を全うしよう、必ずオリパラを成功させよう。それが必ず、世界の平和にいつか繋がるのだ。と、より強く思った。オリパラ職員に内定した時以上の覚悟だった。

仕事に戻ると、延期やコロナ対策に関わる100以上の問題を、毎日のようにさまざまな部署とミーティングをしながら解決いていき、延期による契約書の再締結も締結していった。電気会社や建設会社との打ち合わせもいよいよ終盤というところまできた。そんな中でも、コロナ感染は猛威をふるい、テレビではオリパラ中止論は止まらず、エスカレートしていった。それでも、職員同士で鼓舞しながら、目の前の仕事に全身全霊で向き合った。
そして本当にオリンピック開催間近になって、オリパラ開催が決まった。
しかし一部競技を除いて、無観客となることが決まった。
観客動員に関わっていた職員のことを思うと、胸が苦しかった。

選手村のオープン

そしていよいよ選手村も無事にオープンした。東京オリパラの選手村には、世界205 の 国・地域と難民選手団の選手と選手関係者が集まった。オープンしてからは、私の役割は、毎朝の団長、副団長のミーティングが無事に開催できるようにサポートすることと、各部署がスムーズにサービスを提供できるように監督することだった。直前まで開催できるかわからず、不安な毎日の中、選手村でふと顔を見上げると、目の前にはたくさんの選手が、選手団がいる。紛争化の国の選手を見た瞬間には、思わず涙が出た。

オリンピック開会式の日には選手たちは選手村から開会式会場に向かう。
各国・地域のオリジナリティに溢れたウェアに着替えて、なんともカラフルだった。各国のバスが会場に向かうために選手村を出発するたびに歓声が上がる。カラフルな違いを認め合い、交流し、尊重し高め合う。
まさに東京オリパラ大会ビジョンに掲げていた「多様性と調和」をひしひしと感じる時間だった。
一人一人の選手や選手団がそれぞれの国でコロナ感染拡大によって大変な思いをしただろう。開催されるのかどうか直前までわからない中で毎日不安だっただろう。それでも、私が選手村で見た選手、選手団のたくさん、たくさんの溢れんばかりの笑顔に出会った。


そして、中止論を報道していたテレビ局は、連日東京オリパラでの選手の活躍について報道していた。

選手村で得た確信


選手村での仕事を通じて、私の仮定は確信に変わった。”選手村で働くことで、世界の平和を作り出すヒントが得られるのではないか”。という仮定だ。
平和な世界を作り出すために必要なのは大きく2つあると感じた。

一つ目は全員の共通のルール。
もう一つは隅々まで物資や飲食を行き渡らせることのできる輸送システム。

選手村は全員が守るべきルールが存在し、事前にルールブックのようなものを全ての選手団に配布し、そのルールをしっかりと把握した上で選手たちは選手村に到着する。
そして選手村にはそのルールがしっかり守られているかを監督する部署がある。ルールが守られていないような事態が起これば、警備部門がすぐに駆けつける。
そして選手村内の輸送ルートも完璧に計画され、選手村のどこにいても飲食に困ることがない。だからこそ選手と選手団は安心して選手村で過ごすことができる。
この二つが、世界のどこに住んでいても人々が争いなく平和に過ごしていくために必要不可欠だと感じた。

もちろん選手村と地球は蟻と象以上の大きさと複雑さの違いがある。
しかし世界205 の 国・地域と難民選手団が一つの村の中で一緒に生活を共にするというのは、世界の中で一番地球の環境に近い場所だ。
全世界に輸送を張り巡らせるなんて、莫大な労力も費用もかかるだろう。
2023年の世界の軍事費は、2兆4430億ドル、日本円で377兆円。この軍事費を各国毎年2%づつでもこの費用に回せないだろうか。

ルールの面では、国際法があるが、基本的に強制力が無いため、多くの国では自国内の法律が優先されている。
国際連盟の安全保障理事会は国際の平和と安全の維持につき主要な責任を有しているが、拒否権があることによって、基本的に議決は合意に至らないことが多い。(ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をめぐり、国連の安全保障理事会ではロシア軍の即時撤退などを求める決議案が採決にかけられ、理事国15か国のうち11か国が賛成したが、ロシアが拒否権を行使したので、決議案は否決された。)
現時点では地球全体を政治的、経済的、軍事的に統治するような組織や憲法、法律は存在しない。でもこのルール策定には私はやはり世界政府のようなの存在が必要だと思う。

この世界には全ての人が食べられるだけの食べ物がある。食料、資源をうまく分配できるような仕組み・ルールを作り、世界に張り巡らせた陸路、空路、航路を利用して、食料、資源を全ての人に届ける。
世界に住む全ての人が寒さに凍えることもなく、毎日お腹いっぱいになることができる。
とても夢物語に聴こえるかもしれないが、日本が戦国時代を終わらせることができたように、世界でもいつか戦争を終わらせて、人々が平和に暮らせる日が来ると信じている。

退職のその後、レガシーとしての覚悟


オリパラ組織委員会を退職後、世界を動かす力があるはアメリカにあると思い、6ヶ月英語を勉強してからアメリカに渡り、大学院を卒業した。今はアメリカの会社で働いている。
オリパラ関連で出会った職員、関係者の方々と一緒に働いた日々は一瞬一瞬がかけがえのない時間で、一人一人との出会いが、かけがえのない宝物だ。そこで出会った方々は、今もそれぞれの場所で活躍されている。
アメリカに住んでいる今も、この2つの確信を行動に変えるために今後どのようなアクションをとっていくべきかはまだ正直わからない。
しかし、東京オリパラでの経験、一人一人とのかけがえのない出会い、そして当時の私が、今の私の背中をいつも押してくれている。

私は、東京オリパラのレガシーの一人として、これからも世界の平和に向けて歩んでいく。


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