すべてが不完全で未知であること(1)

白か黒ではなくて、全てが不完全であり未知であるということ。
危機の時代にあって、誰もが、不安・恐れ・怒りといったネガティブな感情に巻き込まれやすい。気にしないように気晴らしにふけっている人たちもいるけれど、同時代にここに生きている限り、不穏な空気から自由になるのは難しい。

こういう時に、極端な意見で白か黒かになりやすいことは歴史が物語っている。ウイルバーの統合理論的に言えば、白でも黒でもなく、白でもあり黒でもある。つまりすべての事柄は部分的正しくて部分的に間違っているのだ。このような認識が、極端な判断を重いとどませる歯止めになれば良いと願いながら、トランスパーソナル心理学の授業を行なってきた。

自己超越なんて、自己実現も難しい人たちにとっては想像し難いようだ。忘我とかいうと、何かに夢中になって時間を忘れる、フローのようなことだと勘違いしている学生がいた。いやいや、マズローの至高体験のようなものを考えて欲しい、といったけど、どれだけ理解が進んだことだろうか?
発達段階によっては上の発達段階を想像したり理解することは不可能なのかもしれない。登山の途中で頂上からの景色が想像できないのと同じで。そうだとしたら、いくら易しい言葉で説明しても、自己超越をフロー概念と間違えてしまうような理解になるのは当然だ。

白か黒かですべてを判断しなければ心理的安心感が得られない発達段階では、異なった意見を受け入れつつ自説を持ち続けるという対話は至難の技となる。大きな声と「みんなそう思ってますよ」という呪文のような言葉が日本人には有効らしいが、それで皆、不安を「絶対にだいじょうぶだ」という思いにすり替えて安心感を持ちたいようだ。でも、絶対に大丈夫なことなどあり得ないのが事実だ。

あるいは、簡単に同調してしまう立場に対する反発する声も、次第に暴力的になって行ったり、嘘つき相手にはこうするしかないとばかりに、事実に基づかない誇張も厭わなくなってくることも観察される。そうなれば、陰謀論扱いされて、敵の思う壺であることへの理解も足りないようにも観察される。

ネガティブな感情に覆われてしまうと、このように、認知機能・判断力の低下が起きてしまう。危機状態に注意深くなることは必要な対処法だけれど、それもこれも、事実をきちんと認識するという大前提の上で成り立つことである。
事実をきちんと見つめるには、冷静さと同時に大丈夫だという安心感が必要だと思う。一時的なことである、良い方向に向かっているプロセスに過ぎないという安心感があるからこそ、どんな悲惨な事実も見つめることができるのだ。

大丈夫ではない、しかし、大丈夫なのだ。

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