ポジティブ心理学者ですが・・・

いつも喜んでいなさい。
私が大好きな聖書の教えるモットーだ。
ポジティブ心理学でも、ご機嫌な時にいい人になるからポジティブになろうという。世界平和は自分から、つまり自分の心が平安であることが一番大切だとも言われる。
でもあえて今私は、不快な感情を持ち続けることの意義と重要さについて語りたい。

人殺しや盗みや嘘つきに対する不快な感情は、誰でも人間として当然備わっているものだ。それを、寛容であれとか、すべてを受け入れ理解することとが大人の態度だというのはどうなのだろうか?

理屈ではなく、私はものすごい気持ち悪さを感じて受け入れられない。人一倍潔癖な性分だからかもしれない。けれど、人殺しや盗みや嘘つきというのはどんな理由があれ嫌なものだ。それらを正当化する理屈や隠蔽が必要になってくると、理論も合理性も捨てられ、自然に起きてくる不快感も捨てられる。
人間は不快な感情に長く耐えられないようにできているようだ。
免疫も下がるし、いいことはないから笑い飛ばしてしまおうか。
それも生き残るための必要な知恵だと思う。

私はいつもそう言って、ポジティブで朗らかな空気を振りまいてきたと思う。
しかし、それとこれとは違うのではないか。
殺人、盗み、嘘つきに対する不快感は、生きていく上で大切な感情だと思う。何もいい人になろうとしているわけではない。殺人、盗み、嘘つきは世界を破壊していくことがわかっているから言っているのだ。

問題を指摘するより、むしろ愛を実践して広げていくほうがいいに違いない。それも確かに。私がいつも言っていることだ。
でも、この気持ち悪さを持ち続けていく強さがあってこそ、殺人、盗み、嘘つきが蔓延する歯止めになっていることを思い出して欲しい。

ある年のクリスマスに、プレゼントもご馳走もなしにして、今年はすべてを貧しい方必要な方に必要なものを与えることにした、という家族がいた。美しい行為だと思ったけど、どこか、何もそこまでしなくてもという思いも正直あった。
今この瞬間にもどれだけの人が食べ物がなく死にかけているのかを思うと、グルメに走る行為はなんなのだ?こういうことを言うと嫌われる。楽しみをとがめられると感じるからだろう。見ないようにしていても、事実は事実だ。

歪められた真実を前にして私は黙っていることはできない。
不快感を拭い去ることもできない。
自然にわき上がってくる感情だから、大切に持ち続けていきたいと思う。
これはサディズムではない、むしろその反対だ。
この不快感を自覚することによって、自分と世界の今を認識していくからこそ、単なる遊興からではない魂の底からの喜びに満たされるのだと思う。

喜びは悲しみといつも同居している。

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