見出し画像

自分と、社会と、自然と。 人間の痕跡が残る只見の森で考えたこと。

「人と自然との繋がりを再考する」というテーマで開催されたKOTOWARI会津サマースクール。その中で、自然と社会、そして自分がどう関わり、繋がっているのか、という漠然とした問いは、少しずつ自分の中ではっきりしたものに変わっていきました。この物語は、その過程を記した備忘録です。

 私もまだ見つける旅の途中だけれど、「もしかしたら『豊かさ』ってこんなものなのかもしれない。」と感じ取って、この旅に寄り添っていただければ嬉しいな、と思っています。




 朝靄が山々の稜線にかかり、鳥のさえずりが朝を告げる。稲造は今日も、藁で編まれた背嚢を背負い、只見の森に柴刈りに出かける。壮大な自然の中に人々が生きる、ここ奥会津の地で、稲造の家族は代々生活を続けてきた。そろそろ秋も暮れ、日本有数の豪雪地帯と言われる只見の厳しい冬は間近に迫っている。寒さを耐えしのぐために、燃料となる木の枝はこまめに集めておかねばならない。

 自分も、そろそろ六つになる娘の留も、こうやって生活を続けていくのだ、とさらに紅葉が深くなったいつもの山道でふと思う。いつもの手つきで柴を刈っていると、稲造の頭に、赤い小さなりんごのような実が3つ落ちてきた。見たことのなかった木の実に驚いたが、りんごのような実ならば食べられるだろう、と試しに一つ口に入れた。すると、甘いが少し苦く、薬草に近いような感覚を覚えた。何かに使えるかもしれない、と残りを背嚢に入れ、いつも通りの仕事が終わると帰路についた。

 家に戻り、木の枝を縛った藁の紐をほどいていると、妻のハツが「風邪がもう治ったんでないの。」と稲造に声をかけた。何のことかと考えると、寒さのせいでしばらく続いていた咳はすっかり収まっていた。「これは魔法のようだ。」と驚いた稲造は、長い間咳に苦しんでいた、近所の泰介にこの実を届ける。泰介の咳も次の日にはすっかり良くなってしまい、この実についての噂は瞬く間に村中に広がった。稲造はこの実を村の長にも届け、これは咳止めの薬「やまなし」として知られるようになった。それから、季節になると柴刈りのために森に出かける村人が持ち帰り、村の病気の者に分け与えるようになった。稲造がやまなしを見つけてから一年が経ち、ある日稲造は自分の娘、留を連れて柴刈りへ赴いた。いつもの場所で柴を刈っていると留はやまなしを見つけ、「お父さん、これが魔法のやまなし?」と訊いた。稲造は、やまなしの巨木に手をそえながら、「そう、この木が村の人々を救った、とも言える。本当に有難いなあ。」と言った。父が話をする間ずっと、やまなしの木を見つめていた留は、そっと木に向かって手を合わせた。

 人間たちに恵みを与え、時に打ちのめす自然に対する畏敬の念は、自然とのやりとりの中で当たり前のように存在した感覚だった。そして、親から子へと代々、知恵を受け継いでいく時間、空間は村人たち自身を形作っているものでもあった。
 この物語は、村の中で語り継がれ、人々は季節になると実を拾い、それを村の中で必要な人に届けるという伝統が作られた。


 それは只見の森で、金儲けには役に立たないと言われる橅(ブナ)の木を皆伐する「ブナ退治」が始まった頃だった。ある日、薬売りが只見の村を訪れ、ある村人から「やまなし」の話を聞いた。「そんな咳止めの特効薬があるのなら、それを製薬会社に売れば金になるぞ。」と薬売りは言った。それを聞いた村人は、こっそり只見の森のやまなしをある限り拾い、東京の製薬会社に出かけていった。
 その村人は、他の村人たちとは違って山を所有しておらず、国有林からやまなしを採ったのだった。彼は予想通りの大金を手にし、地元に帰った。貧しい家庭ではあったが、彼はそのお金で息子を大学にやることができた。しかし、次の年からはやまなしの採集は競争となってしまい、村人同士がお互いを見張るようになった。また、多くの村人がやまなしを全て東京に売りさばいてしまうことで、只見ではやまなしが咳止めとして使われなくなり、慢性的に咳に苦しむ人々も増えるようになった。そのうち、生物学者がやまなしのことを知り、調査のために木を伐ることになった。

 そんな時、村の一人のおばあちゃんが、やまなしにまつわる昔話を家族に語った。その話は昔から語り継がれ、村でやまなしを分け合う伝統を作ったものだったが、いつしか忘れかけられていた。その昔話が伝えてきた「みんなに必要なものは共有する」こと、そして自然とのやりとりから生まれる畏敬の念は、気がつけば人々の心の隅に押し込められた感覚になってしまった。しかし、やまなしの木を伐る、といういわば村人たちの、只見の森との根本的な繋がりを断つ行為は、家族のためのお金をなんとか稼ぐためにやまなしを売り始めた一人の村人が望んだことではない。それを直感したのは、その話を聞いていた孫の花乃だった。
 村人同士の繋がりは次第に薄くなり、お互いの関係性を感じづらくなった社会で育った花乃が感じたことは、「共有する」ことが築いてきた村としての文化、人と人の繋がりの必要性だった。やまなしの伐採に対する反対運動が少しずつ始まる中で、花乃が思いついたのは全く異なるアイデアだった。「モノを共有する」という関係性にすぐに戻そうとするのではなく、「空間の共有から始める」ことを思いついたのだ。森の恵みに頼らずに、マスや鮭の遡上しなくなった只見川のダムで作られた電気を生活に使うようになってしまった現代の人たちに必要なのは、森に行く目的をもう一度作ることだった。そんな中で、誰もが一度は夢見たことがある”ツリーハウス”を作ることが、「共有」を取り戻す一番の方法になるのではないか、という花乃のアイデアは、いつしか確信に変わっていた。


 花乃は、ツリーハウスを作るために、自治体への働きかけや人々からの資金集めをした。さらにインターネットでも「ツリーハウスという共有の場から只見の自然観と文化を再興する」という想いに賛同する人々からお金を募った。多くの人の共感が重なり合い、”ツリーハウス”という皆がワクワクする夢のような空間を実現する道筋がはっきりと見えるようになってきた。立てる段階になると、多くの人手が必要になったが、秘密基地の好きな小学生、ゆっくりとした時間を過ごす、おじいちゃんやおばあちゃん、休日は憩いの場を求める親世代も手伝いに駆けつけた。多くの人が森に集い、かつて交流したことのなかった地域の人同士が交流する場が少しずつ生まれ、育まれていった。花乃一人が思いついたアイデアだったが、それはいつしか「みんなのツリーハウス」に変わっていた。
 完成してからは、かつて森と関わりあうことによって、昔の人がどのように生活をしてきたのかを知り、体験する機会を作った。また、みんながツリーハウスに手作りのお菓子、楽器、お気に入りの詩や本を持ち寄って、カフェや音楽会が自然と開催されるようになった。そして、みんなが想像した様々なアイデアが実現される場所になり、自然に人々が集まって、つくり、楽しむ空間になっていった。ほぼ全ての生活の営みが社会システムを介し、「自然」と個々人の相互関係が遠くなったことで少なくなってしまった「かけがえのない時間」そして紡がれることのなかった「ストーリー」。それが、ツリーハウスという場所を通じて、もう一度、一人一人違う形で甦ってくる。その過程の中で自然との相互関係は少しずつ直接的なものに変化していった。「その土地における自然との関わりを再構築する」というツリーハウス、共有の場の役割は成功を収めた。
 人と人、自然との繋がりを自分の中に再び感じ始めた地域の人々は、やまなしの木を伐ることは自分たちの根底にある価値観にそぐわないと気づき始めた。ついに、反対運動によって延期が続いていた伐採の計画は中止が決まった。
 さらに、地域の人だけではなく、インターネットを通じて寄付してくれた遠方に住む人や、旅の途中に立ち寄る人など、想いに共感する人たちも少しずつ只見のコミュニティに繋がっていった。

 みんなが笑い合い、楽しみ、語り合い、新しい可能性が生まれていくコモンズ、ツリーハウス。それはかつて只見の人が生きていくために分け合ったやまなしの実の物語を源流として今に流れる、あたたかく、新しい繋がりあいの空間。ツリーハウスをつくる一人一人が自分のペースで自然と向き合い、繋がる。お互いの大切にしていることを共有し、ワクワクが広がり、人と心地よく繋がる。人と自然とのつながりは、今の社会ですべての人が共有すべき、そして、したくなる感覚なのだと思う。それは、個人が「消費する」ことを基本とした今の社会で、一人ひとりがもう一度「つくる」ことのできる豊かさを想像する大きな一歩となる。
 「つくる」ことによって生まれる、かけがえのないストーリーは、只見に残る自然という歴史の残像が紡ぎ出したものでもある。46億年、という計り知れない時の流れの中で、無数に繰り返された生と死があり、それがつくった大地に今、私たちは立っている。この地球と生命の壮大な流れに身をまかせながら、人も自然も豊かになっていく、新しい、そしてどこか懐かしいストーリーを紡いでいきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?