世界初の歯科医育機関「ボルチモア歯科医学校」ハイデンとハリス:歯科医療の歴史(19世紀アメリカ編①)

 19世紀になると歯科医療の舞台は新興国アメリカ合衆国へと移ります。1854年、日米和親条約により開港した日本へアメリカの最先端歯科医療が流れ込んできます。その前夜として4回に分けて話をします。(小野堅太郎)

 1493年のコロンブスによるアメリカ大陸の発見はヨーロッパ各国によるアメリカ植民地化を引き起こし、インディアンたちへの迫害が始まります。15世紀は主にイギリスとフランスからのカソリック教徒が移民し(オランダ、スペイン、スウェーデンからも)、16世紀はプロテスタント、17世紀はピューリタンも入ってきます。ヨーロッパでの代理戦争ともいえる戦争を繰り返しながら、インディアンを奴隷化して農産業を発展させていきます。

 ちなみに日本では一時期、「インディアンはインド人の意味なのでネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)」という風潮がありました。しかし、当のインディアン達は「インディアンと呼んでくれたほうがよい」と主張しています。たしかに後で侵略してできたアメリカという国から見て「先住民」という言い方は失礼です。インディアンを英語の意でとらえるのでなく固有名詞としてとらえたほうがいいでしょう。インディアンの歴史を辿るとホロコーストみたいなことが行われていて胸が痛いです。

 さて、1763年までにイギリスは北アメリカ東部の植民地をほぼ手中に収めます。しかし、工業化して力をつけてきたアメリカは各州が連携することで1775年に「アメリカ独立戦争」を始めます。そして1787年、ニューヨークを首都としてアメリカ合衆国が誕生します。

 このアメリカ合衆国設立前、フランスからジェイムズ・ガルデットおよびジャン・ピエール・ル・メイユールの二人がフォシャール仕込みの歯科医療をアメリカに持ち込みます。アメリカ合衆国初代大統領といえばジョージ・ワシントンですが、彼の歯科治療をル・メイユールが担当しています(有名なワシントンの入れ歯はル・メイユールの後のジョン・グリーンウッドの製作です。)。ガルデットはフィラデルフィアに定住し、弟に「歯医者はめちゃくちゃ儲かるからアメリカに来なさい」というような手紙を送っています(1829年に帰国)。

 19世紀になった1801年、東海岸のメリーランド州とヴァージニア州の境目にコロンビア特別区(D.C.)を作ります(ニューヨークから南西へ300㎞のところ)。亡くなったジョージ・ワシントンから名前を取ってワシントンD.C.となり、首都がここに移りました。その後はルイジアナ州(購入・一部交換)、フロリダ州(購入)を手に入れて領地を拡大し、西部劇で有名な西部開拓時代となります。

 そんな1840年、ワシントンD.C.からニューヨーク側への北東へわずか50kmのボルチモアに世界初の歯科医育機関「ボルチモア歯科医学校」が開校します。創立者は、ホレース・ハイデンとチェーピン・ハリスの二人です。

 1769年にハイデンはコネチカットに生まれます。船に乗って航海の仕事に就く傍ら、父と同じく建築家として働くようになります。23歳の時に、ニューヨークで先のワシントンの入れ歯を作ったジョン・グリーンウッドの歯科医療を受けて感動します。そして、なんと!あのジョン・ハンターの書物「ヒト歯の博物学および歯疾患の報告」に出会うわけです。

 30歳でボルチモアに移ると、40歳で実施歯科免許をメリーランド州内科外科医師会からもらいます。あれ、医学校出てないの?と思うかもしれませんが、当時、アメリカには小さな医学校がたった4校しかなかったので、みんな医者に弟子入りして医学を学んでいたわけです。ようやく5校目として1807年にメリーランド医科大学(後のメリーランド大学ボルチモア校医学部)ができたばかりです。勘違いしてはいけないのは、ハイデンは歯科医師ではなく「医師」として歯科医療をやっていた、ということになります。

 ハイデンは50歳の時(1819年)、メリーランド医科大学で歯科生理学・病理学の講義を6年間行います。中止したのは、医学部内での紛争のせいです(1837年から講義復活)。そんな紛争の中、1830年、60歳のハイデンの元に24歳のチェーピン・ハリスが学生としてやってきます。歯科生理学・病理学の受講生は少なかったようですので、二人が親密になるのは当然のことでした。

 ハリスは1806年にニューヨーク州ポンペイで生まれ、17歳の時にオハイオ州マディソンに引っ越します。20歳前後で医学を学び、内科・外科の開業資格を取ると22歳で歯科医院を開業します。そして、ボルチモアのメリーランド医科大学でハイデンと出会い、メリーランド州の開業資格を得ます。ボルチモア歯科医学校設立まで、巨漢のハリスは南部への巡回診療を行うようになります。この間、ワシントン医学校にも所属しています(この時ハリスはMDを取った気でいたようですが、記録がないそうです...)。

 さて、1839年、70歳のハイデンと33歳のハリスはタッグを組みます。世界初の歯科医学機関誌「The American Journal of Dental Science」を創刊します。ハリスの尽力が大きかったそうです。ハイデンはというとこれまでに再三「歯学部」の設立をメリーランド大学に要求していたのですが、失敗していました。そこで、二人はボルチモア州議会から歯科医学校設立の認可を受け、1840年、「ボルチモア歯科医学校」を設立します。後にメリーランド大学ボルチモア校歯学部となります。修学期間は4ヶ月以上1年以内、卒業生に Doctor of Dental Surgery(DDS:歯学士)の称号を与えることになります。DDSはここから始まったわけです。

 ハイデンは歯科生理学・病理学の講義を行いますが4年後に死去します。その後をハリスが学長となります。ハリスはその後、膨大な歯科書籍を残しますが、過労のためか54歳の若さで亡くなります。生活は苦しく、亡くなった後に募金運動があったらしいです。学校設立に資金を使ってしまったのでしょうか。うぅ、なんか、九州歯科大学創立者である國永正臣の晩年と重なります。

 さて、ボルチモアでのDDS誕生の中、北東600㎞の都市へと話は移ります。ここで複数の歯科医師たちによる麻酔法の偉大なる開発がありました。ゴールドラッシュ時代、アメリカンドリームに食い物にされた者たちの話です。次回、お楽しみに。


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