歯科医学を創設した歯科外科医フォシャール:歯科医療の歴史(近世ヨーロッパ編③:16~18世紀)
ついに歯科医療が学問となった話に入ります。内科中心の医療から外科が分離しましたが、歯科医療は「学問」とはなっていませんでした。18世紀になりようやくフォシャールにより「歯科医学」が生まれます。(小野堅太郎)
床屋外科パレの記事でも述べたように、医者のランク付けからすると「内科医」が標準で次が「外科医」でした。外科医の中にもラテン語教育を受けた者(外科床屋)と受けていない者(床屋医者)があります。歯を抜いたりする歯科医療は基本「床屋」で行われているか、巡回歯科医(歯抜き師)が執り行っていました。フォシャール以前の段階で大学で「内科」「外科」の講義が行われていたわけですが、「歯科」は当然ありません。「教育」としてまだ学校で学ぶべきものではなかったのです。
もちろん、パレが現代の「口腔外科」というべき医療(口唇口蓋裂手術・歯牙移植)を行っていたということからも、外科的な歯科医療とその教育は行われていました。しかし、虫歯や歯周病などで歯を抜く行為に関して、何ら資格試験はなく、誰もが歯科医に成れたわけです。というか「医学」として認められていなかったわけです。
近世における大航海時代での貿易を介した利益は国家間の絶え間ない争いを生み、「外科学」を確立させていきました。一方で、極一部の富裕層しか得られなかった甘いモノ(砂糖)が社会に一気に流通し、虫歯(う蝕)が増え、歯科医療の重要性が高まった時期でした。1699年にフランスでは歯科医術規則が制定され、試験委員会(試験官は外科医)があったことがわかっています。
そんな中、フォシャールが「歯科医学」を確立するわけです。
フォシャールは1678年、フランス北西部のブルターニュ地方で生まれ、詳細な出生地はわかっていません。ブルターニュ地方とは、モンサンミッシェルがある海岸地域というとわかってもらえるでしょうか。パリからはだいぶ離れています。ちょうど仏蘭戦争(フランスがオランダに侵攻した戦争)が終わったころです。フォシャールは15歳で海軍に外科医見習いとして働くことになります。
海軍ですから艦隊に乗って長い旅をするわけです。大航海時代から、長期間航海をする船乗りにとって共通する怖い病気がありました。「壊血病」です。ビタミンC(アスコルビン酸)不足により引き起こされる病気で、200万人が亡くなったともいわれています。口の中での症状がひどく、歯茎の黒変、歯肉からの出血、歯の脱落が起きます。フォシャールは後に、この海軍時代の指導医ポトゥルレから口腔疾患について多くを学んだ、と書き残しています。
3年間の海軍勤務の後、18歳から40歳まで(1696-1718)アンジェで過ごし、近隣地域を巡回診療しながら歯科医師としての評判を得てきます。フォシャールは歯科診療の資格試験に合格し、1719年にパリで上流階級のための歯科医師として活躍することになります。56歳の時、「ドゥ・グラン=メニル」というお城付きの広大な土地を購入していますので、めちゃくちゃ儲かっていたようです。1761年、83歳で亡くなっています。
フォシャールは多くの弟子を持ち、歯科医学を教育しています。加えて、1728年「歯科外科医」という2部構成の歯科治療専門書を残しました(完成は5年前、45歳の時)。この本は1733年にドイツ語にも翻訳されています。この本を踏まえ、ドイツでは、フィリップ・パッフによる「人の歯とその疾患に関する論」(1756年)がドイツ語で出版されます。
「歯科外科医」の第一部では歯の構造や機能、歯牙口腔疾患100種を分類し、治療法と予防法を詳しく解説している。第二部では、各種の手術法、考案した歯科用機械・器具の使用法を解説し、特異な症例72ケースを紹介している。現代の歯科医学書の原型ともいえる内容です。概説本が翻訳されていますので、下のリンクから参照してください。う蝕や歯周病に対する当時の治療法、歯科矯正、入れ歯(義歯)の作り方などが紹介されています。
さて、フォシャールにより確立され、広がったフランス歯科医療は、新天地アメリカへと広がっていきます。19世紀になって、アメリカで歯科医学はもう一つ上のレベルに跳ね上がります。
その話の前に、小野の大好きな外科医ジョン・ハンターについて語りたいと思います。フォシャール、パッフに続いて、彼は「ヒトの歯の自然誌」を1771年に出版します。歯科医療の歴史・近世シリーズ最終章です。
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