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何が幸せなのだろう。

貧困とは、潜在能力を実現する権利の剥奪」

生きていて、何となく感じていたことが残酷だけど的を捉えた言葉となってでてきた。


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高校を卒業するまでの18年間何不自由なく過ごしてきた。
美味しいご飯が食べられて、好きな音楽が聞けて、服も自由に買ってもらえて本も読めて、一番熱中出来る部活動に出会えて仲間にも恵まれ、勝負の神様も味方になってくれた。

ずっと幸せだったかと聞かれれば分からないけれど、この”分からない”というのは幸せの中での、辛いこと・悲しいこと・苦しい・頑張りたくない、だと思う。


小さい頃からテレビが好きで、その中でもニュース番組をよく見ていた。
好きだったからというより、日々の生活で当たり前にある流れている音だったのか。

朝は必ずニュースが流れている。学校から帰ってきた時も、夜ご飯の時もそう。
これは、ママが一番初めに起きていて帰ってきたときも家にいてくれる、そんな”当たり前”をつくってくれていたから。テレビが流れている毎日が当たり前の日常となって、そういうのが私の中に溶け込んできて、それが普通の心地よさになった。だから好きなのかな。

そんな日常の中で私が造られた。
テレビが見られるタイミング的にニュース番組が多かった。
だから社会問題と呼ばれる平和の闇に隠れみんなが目を背けようとしていること、ニュースをじっくり見ていなければ気に留めない事件、そんなのがなんとなく気になり始めた。いろんな世界があるんだなあと海外にも興味が湧いた。



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高校を卒業して大学生になった。初めてアルバイトをした。その溜まったお金で「途上国」と呼ばれている国でボランティア活動に参加した。

2週間のボランティア期間中に、リアンという名前の子ととても仲良くなって殆どの時間を一緒に過ごした。

リアンは、とっても歌が上手い!(プロになれるレベルだと思う!ちょっと前にバスっていた、ののちゃんとおんなじかそれ以上かも!)色んな良い部分があったけど特に誰よりも優しい子だった事を覚えてる。たっくさん私の事を心配してくレたことも覚えてる。
変な虫に刺された時、眠そうにしていた時、少しだけでも1人でいる時間があったらくっついてきて手を握ってお話ししてくれた。
「アテ、アテ〜 」
目を真っ直ぐ見つめて、そんな風に私をよんでくれた。


フィリピンでは、お姉ちゃんの事をタガログ語(フィリピンの共通語)で”アテ”と呼ぶ。
だから私は「アテ」。

「アテ大好き〜」「アテ遊ぼ〜」
親、施設の人、誰にも甘えられない分、私たちに甘えてきているのだろうなと感じられる程人懐っこかった。これがこの子達の処世術なのかも知れないとも感じられたし、きっとそう。
そんな優しい皆んなが暮らす児童養護施設のお手伝いをするボランティアに参加しました。


あの頃ちまたで騒がれていた”ヒアリ”に出会った日。
(港から入ってきたちっこい蟻。噛まれたら蕁麻疹が出たり息が苦しくなったりするとか言われていたやつ)
そんなんは普通に庭で大量発生していた。フィリピンでは普通らしい。そして、当たり前のようにみんな噛まれていてかきむしっているだけだった。

とある日、自分たちで食べる命はその場で殺す光景を見た。
特に衝撃だった事は子供たちが今目の前で生きていた豚を一瞬で上手に殺して食用にしていた時だった。
毎日可愛がっていた豚を私たちが帰る3日前とっても良い天気の日、部位ごとに綺麗に解体して外に干した。

他には、ストリートチルドレンの1日を教えてもらった。
車が速度を落とさない普通の道路で物を売る。もちろん整備なんてされていないから道は凸凹だけど裸足で歩いていた。聞くか迷ったけど聞いてみた。

「学校には通ってるの?」
「もちろん!でも働きながらだよ。学校は3部制になっていて僕は朝4時から通ってて、9時ごろ終わる。そしたらそのまま働きに行ってる。」
「何時まで働いてるの?」
「夜の10時とか11時まで。」

心臓がドキドキいった。それ以上何かを聞くことができなかったし、これ以上深い話ができない英語力しか持ち合わせていない自分がいた。情けないなあ。私の表情をリアンは優しさで感じとり何も気がつかないふりをして話を続けてくれた。


「将来ね、ママと一緒に暮らしたいんだ。」


お父さんは誰か知らないらしい。
前にリアンが言っていた。
「一緒に住むためにお金をもっと稼ぎたいけど、、、学校に行って勉強もしたい。」
世界は残酷だ、貧困は不自由だ。そんな風に思ってしまった。そしてもう一つ後になって知った、悲しい事実があった。

リアンの母親は、虐待をしてしまうネグレクトらしい。

あまり母親との記憶がない。だから、この事実を本人は知らない。そんな風に、栄養たっぷりそれ以上に肥った施設の管理人が言ってた。それで、2週間、子供たちと毎日一緒にご飯を食べた時に私たちはいくらでもおかわりが出来たけど、食べ盛り育ち盛りの子供たちが全くおかわりをしていなかったことが気になったことをふと思い出した。




私は貧困の当事者じゃない。
虐待とかひとり親家庭でもない。

だからこの本を読んで思い出の感情なんて書いて良いのかと考えて考えて、でもやっぱり社会に目を向ける事をしたいと思ったからこの場で余計なことは考えずに言葉を綴りました。

でも、今まで話していたことは、少し極端な例かも。


このボランティアから帰ってきた後に、大学で人間学という授業を専攻して。
その授業では、たくさんのグラデーションを学んだ。例えばLGBTQetcなどの曖昧な区別や差別に苦しむ人たちのこと、ブラック企業と呼ばれる過剰労働者が出てしまう日本人の人情働きの異常な量、貧困ではないけど生活が苦しくて学校の給食費が払えないこともある家庭への援助の境目。


本当に苦しい人よりはまだマシだから、頑張れるから、我慢できると思って
「助けて」
と、口にする勇気が出ない人たちの曖昧な部分のグラデーションを知らなかった。
何にも知らなかった。
そんなことに気がついた時、私はゆっくりと目を閉じていた。瞼が重くて痛かった。とってもとっても心も痛かったし、自分を恥じました。

本当のことを言うと、働きすぎた経験が私にもあって「助けて」を言えない時期があったから、今は自分の心を整える事で精一杯だから、今はなんにも行動出来ない。
でも、こういう社会問題があることを知る。その余裕だけはあるから、こんな風にこれからも、誰にも届かないかもしれないけれど、知ることをやめないで、それでせめてもの足掻きで手の届く人たちへ愛を伝えていこうと思います。

愛を伝える権利だけは、きっと自由だからね。


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