死後生存

僕のテーマはこれである。
釈尊が無記と言おうが、誰かがカルトだと言おうが、その言葉に依存することそのものが間違っている。
釈尊がいたころの無記はなぜ無記なのか、それを考えようともせず、ただそれをそのまま引用してそうだという。
本当にそれでいいのか。すでに2500年も経ているわけだ。その時代の違い、環境の違い、人々の思想の違いがあるにもかかわらず、いまだに「無記」であると、そればかりを主張するやからがいる。
その人たちには、研究心というものがないのだろうかと言いたい。
2500年前に書かれた全てを、そのまま信じるのかということだ。
それから、カルトについて。
カルトは果たして危険だろうか。
僕はそうは思わない。ある種の救いだと思う。
ただ、その救いを導く人がどんな人間かということを問うことは大事だと思う。
そのために、知識が必要だと思う。
その知識は、哲学であったり、心理学であったり、宗教であったり、お酒であたりする。
カルトがなぜ問題かというと、それを問うことができないからだと思う。
問うということは、疑うということだ。
その人が真実を言っていると、そのまま信じることではない。それは本当かと疑える基礎知識だ。
基礎知識がない人が、ある人が言うことに感動したとしよう。
感動は、信心を養う。疑いが消えるのだ。
疑いが消えると、それを問うことができない。なぜそうなのか、何がそうするのか、その根拠はどこにあるのか。
そして、すべてを信じてしまう。

どこにもはまらないためには、基礎知識が必要だ。
そして、どこにもはまる必要はない。私が目覚めていればいいのだ。
だから、死後生存ということに対して、とことんつっこんでいけばいいと思う。
それが様々な人を苦悩から救う一つの道であると思うから。
死後生存に関しては、たくさんの証拠があるではないか。
ちょっと調べてみればわかる。すぐ出てくる。
それを自分でどう処理して、自分の人生にどう生かすかが大切だ。
それを除外して、死後生存の知識は無用なものとなる。
まあ、「生存」とは何かを問わなければならないが。

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