「ほうれん草を育てながら哲学してみた」第6話〜成長が遅いほど味わい深い人間になる」〜
ほうれん草は寒さに強い。だから秋頃に種を蒔くのが一般的で、真冬の寒さの中で生長していく(春蒔きに適した種類もあるらしいが)。
しかし冬は日照時間が短いし、気温も低い。普通、冬は植物の生長が遅く、夏は速い。雑草などを見ていたら一目瞭然だし、ウチの観葉植物(オーガスタ)もそうだ。
でも、「生長が遅い=ダメ」ということではない。ほうれん草もそうだが、むしろゆっくり育つことによって、栄養分や甘みをしっかり貯え、美味しい野菜に育つ。
このことを知って思い出したのが、屋久島の屋久杉である。
屋久杉は、建築材としてとても優れているらしい。そう聞くと、「さぞ屋久島は杉の生育に適した環境なのだろう」と普通は思うだろう。ところがそうではない。逆なのである。
屋久島の硬い岩盤は根が伸びにくく、杉の生長が非常に遅いらしい。だがそのことによって年輪が細かく詰まり、とっても丈夫な木になるそうだ。
だからきっと人間も同じなのだと思う。
「何でこんな大変なことばっかり起こるねん……」とゲンナリしてしまうような環境にいる人ほど、きっと植物でいう年輪が細かく刻まれて、味わい深く強い人間になっていくのではないだろうか。
とはいえ、その時はめっちゃ大変だと思うので、決して自らそのような道を歩みたいとは思わないけれども(笑)。
面白いのは、人間生きていると、大変なこと、面倒なこと、苦労のようなものが必ず訪れる、ということである。「一生順風満帆で困難が一切ない人生」など聞いたことがない。これは不思議なことである。
もしも、困難な環境が人間に深みを与えてくれるのだとすれば、困難とは、むしろ神様からのギフトなのかもしれない。自分が望もうが望むまいが、必ず与えられるギフト。たまに神様が奮発しすぎてえらいことになってしまったりするが(笑)、そういうギフトを与えられてしまった人こそが、周りに尊敬されるような人間になっていくのだろう。
そう言えば、最近読んだ『「福」に憑かれた男』(喜多川泰著)という小説にも、同じようなことが書かれていた。これは「福の神」に取り憑かれた、ある書店店主の物語である。
「福の神に取り憑かれたのなら、さぞいいことがたくさん起こるのだろう」と思いきや、これが全く逆なのである。福の神が運んで来るのは、幸福ではなく、困難であった。
しかしその困難を経験することによって、人間は変わることができる、というのである。ここでも困難は不幸ではなく、神様からのギフトとして描かれている。
著者はその後書きで次のように語っている。
できることなら、そんな危機的状況は経験したくない。けれども、それは否応なく与えられる(笑)。で、どうせ与えられるのなら、それを気に病んで沈み込むより、はればれと立ち向かいたいものだ。
困難が神様からのギフトなのだとしたら、それをわざわざ自ら求める必要もない。そんなことは考えずに、安心して楽しく暮らせばよい。それでも与えられるから「神様からのギフト」なのだ。
自分から見てどんなに幸せそうに見える人にも、必ず何かしらの困難が贈られているはずである。それをどう扱うのかは人それぞれだと思うけれど、その人が生きている限り、そのギフトはその人に深みを与えてくれると思う。
もちろんほうれん草だって、自ら困難を求めたりはしないだろう。すくすくと大好きな太陽に向かって育っていく。しかし日々の気候や環境の変化が、ほうれん草にさまざまな試練を与える。
たとえば、せっかく芽を出せたと思ったら、その場所が実は大地ではなくプランターだったり、夜になっても照明で照らされて生活リズムが混乱するような屋内だったり。僕に購入されてしまった時点で、こうした困難が確定してしまったわけだ。すまん、ほうれん草。
だからちょっとでも、ほうれん草が困難を乗り越えられる手助けをするのが人間の役割なのだろう。だが、与えられるべき困難を奪ってしまうことは、むしろほうれん草を不幸にしてしまうかもしれない。ほうれん草が栄養豊富な野菜だと言われるのは、冬の寒さという困難を乗り越えながら、ゆっくり、ゆっくりと生長するからだろう。
「困難を奪わない」というのは、自然栽培の思想にも通じるような気がする。人間がやるべきことがあるとすれば、本当にその作物が死に直面しそうな時に、その作物を何かしらの形で応援してあげることくらいではないか。
僕のような栽培初心者に迎えられたほうれん草の困難はいかばかりかと心配になるが、まあそれも神の采配と思ってあきらめていただくほかない。その困難を乗り越えて立派に育ったところを、僕がおいしくいただく。
あざーす、である。
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