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概念ないねんゲーム

電車の中で、誰かがくしゃみをする。

日常の中でよくある風景であり、それを特に気にとめる人はいない。

そんな時、僕はたまに「概念ないねんゲーム」というのをやって遊んでいる。

誰かがくしゃみをしても気にならないのは、みんなが「くしゃみ」という概念を共有しているからだ。「ああ、くしゃみをしてるんだな」と。

しかしである。

もし、僕らの頭の中から「くしゃみ」という概念を消し去ったらどうなるだろう。

隣にいる人が、唐突に大声を発するのである。

「ヘグシ!!」

「クショーン!!」

「アーックシコンチクショー!!」

「ビクッ!」となるのではないだろうか。「えーっ!?」と思うはずである。

「くしゃみ」とわかっていれば何てことはないが、「くしゃみ」という概念を知らなければ、それはただの「奇声」である。

それなのに、周りにいる人たちは何事もなかったかのように平然としている。

「おい、みんなどうしちまったんだよ!?」

まるで「世にも奇妙な物語」の中に放り込まれたような、「非日常」の世界がそこに展開する。

……という遊びを一人でひっそりやっていて、これを「概念ないねんゲーム」と名づけたわけである。

なぜ「概念ないねん」という大阪弁なのか。

言うまでもなく、そうしないとダジャレにならないからだ。

この「概念ないねんゲーム」は、くしゃみだけでなく、何にでも応用できる。

たとえば「睡眠」という概念をなくしてみよう。

「睡眠?そんな概念、ないねん」

するとどうだろう。ちょっと仕事が遅くなって深夜に家に帰ってきたら、家族がみんな意識を失って倒れているのだ。

「おい、みんなどうしたんだよ!!」

しかも全員そろって、フカフカの布に包まれながら。そこにむしろ猟奇的な事件のにおいを感じてしまうだろう。

あるいは、「貨幣」という概念をなくしてみる。

「お金?そんな概念、ないねん」

人々は当たり前のように、スーパーで野菜などの商品を手に取る。どうするのかな?と思ったら、よくわからない紙切れを店の人に渡して、当然のように野菜を持ち帰ろうとしているのである。

「なに強引なことやってんだよ!!」

「変な紙切れ」を渡された方は、たまったものではないはずだ。

日雇いのアルバイトとかをしたら、「はい、今日はおつかれさま」と封筒を渡される。

喜んで封を開けてみると、入っているのは例の「変な紙切れ」だ。

「だからこの紙なんなんだよ!!」

人間は概念の世界で生きている。

僕らの日常を作り出しているのは、この「概念」にほかならない。

だから「概念」を消し去れば、そこには一瞬にして「非日常」の世界が展開するのだ。

しかし考えてみれば、僕たちが子どもの頃は、まさにそのような「概念のない世界」を生きていたのではないだろうか。

だからそこにはいちいち驚きがある。世界は不思議に満ちている。

しかし生きている中でさまざまな「概念」を獲得すると、世界をありのままに見ることができなくなってしまう。既存の「概念」を通してしか、ものごとを捉えることができなくなる。

芸術家の仕事の面白いところは、そのような既存の「概念」を解体してしまうことだろう。

「りんご」の絵を描くことは、「りんご」という概念を解体することである。「りんご?そんな概念、ないねん」と。

目の前にある「何か」を、自らが捉えた「何か」として、ありのままに描き出す。そこには、ふだん「りんご」という概念によって覆い隠された世界が広がっているかもしれないし、それ自体の「本質」のようなものが表現されていたりするかもしれない。

それは「子どもの目で世界を捉え直す」作業でもある。「子どもはみんな芸術家」と言われるゆえんだろう。

だからみなさんも一度、「お金」という概念を消し去ってみて欲しい。

「お金?そんな概念、ないねん」と。

そして、財布の中や銀行にある、ありったけの「変な紙切れ」や「謎のコイン」を、今すぐ杉原宛てに送ってみるといい。

きっと新しい世界が開けるはずだ。

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