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パッチ・アダムスを演じた高校生が、20年後に本人に会った話。 〜前編〜

映画「パッチ・アダムス」をご存知だろうか。

劇場でこの映画を見ることはなかったけれど、高校生三年生の頃にビデオテープで何度も見ることになった思い出の映画。

母校・小田原高校の名物といえば毎年6月に行われる「小田高祭」、いわゆる文化祭だ。文化祭の中心企画といえば、2,3年生がクラスごとに行う演劇。テーマになる映画を決めてそれを自由に脚本を編集し、配役を決めて練習し、文化祭で上演する。本番一ヶ月前くらいからは、それぞれが小道具を作ったり練習をしたりと準備を重ね、どのクラスもかなりの熱量で文化祭に臨むから高校全体のボルテージも上がる。当日は高校生だけでなく一般のお客さんも結構来て、どのクラスが一番良かったのかという投票もあるから、発表時にはもの凄い盛り上がりを見せる。閉会式にはブルーハーツが流れてみんなで肩組んでうぉぉぉお!って感じ(そういう世代)、青春満開だ。

4月に学年が一つ上がって早々、新しいクラスでは「小田高祭どうするか」が議論のテーマになる。経緯は忘れたけど、自分がいた3年3組ではパッチ・アダムスを上演することに決まった。さて次は配役。「パッチ役は誰か?」となり、クラスの一人から自分の名前が上がった。それは光栄なことだし、目立つのも好きだったから嬉しかったけど、大学受験を控えた身分には複雑な気持ちもあり、その時には返事をせず少し時間をもらった。(名の知れぬ地方でも)進学校の高校三年生、しかも理系クラスだと、受験に向かってモードが切り替わる時期に部活以外にも課外活動が入るのは時間的に結構キツイ。確かその時初めてTSUTAYAでパッチアダムスを借りて見たんだと思う。

それは、素晴らしい映画だった!(この間21年ぶりに見ても感動した)。腹が据わり、やらせてもらうことに決めた。

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当時のクラスメイトが自分を模写して作ってくれた立看板

ただ、実はこの三年時の小田高祭は、自分のクラスに関しては振り返ってもあんまり強い印象がない。懸念していた通り、三年生の理系クラスだったから授業が終わったら予備校にすぐに行ってしまうクラスメイトも多かったし、自分が主将を務めていたバレーボール部の最後の大会が5月にあったので、とにかく最優先は部活。空き時間を縫って小田高祭の練習という感じで、本番を迎える時にも正直セリフを覚えるのに精一杯で、全然余裕も自信もなかった。ある程度時間があってやりたい放題だった二年生の時の方が(さざえさんでイクラちゃん役)、思い切り集中して臨めた感覚はあった。

だから、この当時のパッチアダムスの劇のことを人に語ることもなかったし、ほとんど思い出すこともなかった。でも、この間久々にDVDを見たら、当時のことがありありと浮かんできた。あいつがこの役を演じてて結構迫真の演技だったなぁ、とか。かわいいあの子もめちゃめちゃ真剣だったなぁ、とか。終わった後、T澤先生が「大原、よかったよ。俺もパッチみたいな医者になりたいって思った。」と目をキラキラさせながら声を掛けてくれたこと。思い返すと、まさに青春が詰まった二度と返ってこない大切な時間だった。

さて今こんな昔のことを思い出すきっかけをくれたのが、たまたま誘われたオンライン飲み会で知り合った医師の三宅さんという方。
「パッチ・アダムスを今度日本に招聘するんです」と。それ聞いて、「え?そうか、あれ実話だった!まだ生きてたんだ!!」と心が揺らいだ。


高校の時に演じて以来憧れの存在だったパッチ本人と、会えるのか?
侮るなかれオンライン飲み会。
つづく。


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