言葉にするとは、自らを愚者と認めること
この日の想いを赴くままに記した、随筆とも呼べない何か。
言葉にするとは、自らを愚者と認めること。
学ぶとは、自らに絶望すること。
そして誰よりも怖がり、傷つくことで、優しくなる。なれる。なっている。
毎日、毎日、自らの愚かさに絶望している。
心は広くなり、言葉は多義的になった気がする。
言葉にするとは、何かを捨てること。
見捨て、切り捨て、切り取ること。
言葉にするだけで、何も知らないこと、何も理解していないことが露呈する。
言葉にしなくとも、その未成熟さを感じられてしまう。
今の自分の言葉には、1つ1つの繊細さが、ない。
ウィトゲンシュタインの意図することとは全く別に、
僕は、語りえると思い込んでいる何かに関しても、沈黙することの重要性を理解しなければならない。
そんな気がする。
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すぐに何でも固定化してしまう。
訂正していきたい。
もっと毎日、目の前の事象を真っすぐ捉えられるヒトになりたい。
思考と解釈の前提になる理論も知識も排除したい、忘れたい。
でも忘れたら土台がなくなるから、考えられなくなる気がする、だから忘れたくないし死にたくない。
知覚・認識・解釈には更地が存在しないのか。全ての言葉も思考も、誰かと誰かの想いと、誰かを超えた理論を元にしてしまう。それで良い。
断片しか見られない自身に喝を。
もっと敏感に。
固定しない、したくない、せずにいられる脳がほしい。
どうにかして保留できないのか。
印象、雰囲気、空気を操れるか。
処理できる情報量を増やせないか。
情報の”次元“を操作することで、もっともっともっと、世界と人を見られないか。
考えろ、考える。
……………………
……………………
相手に与え続けることだけ考える。
全てを与え続けられる覚悟があるか。
文章あたりの意味含有量という言葉がとても嫌いだ。気持ちが悪い。使用者と敵対する意思はないが、自分が言葉を使うときには、意識したくない。
コピーライティングの基本は文字を削ること、みたいな浅いハウツーも、漏れなく嫌いだ。
僕は、意志と熱がこもった言葉を、優しく細く使いたい。な。
この「な。」のゾットする気持ち悪さに、丁寧に向き合いたい。
強いと言われる言葉、悪口と言われる言葉を、包み込むように使いたい。
言葉やその意味に”一義性”があるはずだという欺瞞的な態度を、なぜ持ってしまうのだろうか。
同じ絵を、同じところから、同じ感性をもって見れるのか。
足らない、足らない、死にたくない、足らない。
足りるはずもない、足りることもない。
全ては“サピエンス”のために。
“サピエンス”であるがために。
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