見出し画像

教育と庭作りは似ている――アリソン・ゴプニックの『思いどおりになんて育たない:反ペアレンティングの科学』レビュー②

(※この記事は2019/12/23に公開されたものを再編集しています。)

子育ての「正しさ」を求めることから降りる

 前回述べた通り、発達科学の知見を紹介するアリソン・ゴプニックの『思いどおりになんて育たない:反ペアレンティングの科学』(森北出版)は、「正しい」子育てや、「正しい」教育を求める中で、親や保護者、ひいては社会が抱きがちな「不安」を解除する役割を果たしている。

私の子どもの育て方は正しかったのか。子どもたちの人格形成に私はどんな影響を与えたのか。それを振り返ってみて、私はこうした疑問自体が不適当だったと強く感じている。(pp.270-1)

この一連の言葉は、ゴプニックが、一人の専門家として、親として、祖母として、市民として書いたものだ。感想を検索した限り、その意図は確かに届いているように思われる(*)。

子育てのメタファー:木工職人と庭師

 本書の原題は、『庭師と木工職人:子どもの発達に関する新しい科学的知見が、親子関係について何をもたらすのか』とでも訳すことができる。主タイトルの「庭師」と「木工職人」は、子どもへの関わり方を象徴するルート・メタファーである。

 「木工職人」は、ゴプニックが批判するもので、平たく言えば、子どもを「工業製品」のように捉える立場だ。素材の細かな差異や変化とは関係なく、ともかく想定通りのクオリティに近づけることだけに注力する。例えば、まだ子どもは三歳なのに「ピアノのコンテストで一位にさせる」「東大か京大に入れたい」と思っている親、PISAのようなテストで高得点をマークするという「確実な“結果”を求める為政者」や社会、そのいずれもが工業製品のような高品質を求めている(p.263)。

 もちろん、その思いを否定するものではなく、ゴプニック自身もその罠に多かれ少なかれ嵌っている(と本人も認める)。しかし、発達科学の知見を借りながら、彼女は、大人は子どもに「庭師」として関わった方がよいとメタファーの転換を提案する。

……私たちが庭の手入れをするときは、植物がよく育つよう育成のための保護されたスペースをつくる。それは額に汗する重労働で、泥まみれになって穴を掘り肥料をまかなければならない。しかしどれほど細かい計画を立てても、そのとおりにはいかないことはどんな庭師でも知っている。(p.17)

 植えたはずの植物が生えず、植えた覚えのない植物が生えてくる。薄桃色のポピーを植えたはずが、鮮やかな橙色のポピーが生える。ささやかに生えるはずだった薔薇の茎が、見ているものを強張らせるほど屈強に育ってしまい、支柱を覆うはずだったブドウの蔦は、足元で元気なさそうに枯れてしまう。こうした努力とは無関係に、虫や病気、動物といったイレギュラーの被害を逃れることはできない。それが庭作りというものだろう。

偶然性や変化と遊ぶ

 「木工職人」と「庭師」という対比には、二つの根本的な違いが存在している。それは、変化や偶然性、乱雑さをどう取り扱うかという点、そして、大人が子どもの活動をどのように監督するかという点だ。

 木工職人は、変化や偶然性を嫌い、庭師は、そうしたものを不可避と考えて、うまく付き合おうと考える。従って、木工職人は、子どもを「管理」したがるのに対して、庭師は、「保護」しようとする。つまり、庭師は、子どもたちが、ある程度安全な状況で、自分なりに世界と関わり、様々な偶然に直面できるような環境整備をする。耕して肥料をまき、支柱やプランターを用意し、いくつかの種をまいたりするように。

 他方、木工職人にとって、子どもが注意散漫にあれこれ手を出すのは、想定された道筋を外れることだ。木工職人は、変化や偶然性を手中に収めるか、無視することで、必死に軌道修正しようと試みる。例えば、山口つばさの漫画『プルーピリオド』のように、勉強に真面目に取り組んで、ありがちな道をそつなく進んでくれると思っていた矢先、絵を描くことに目覚め、芸大に行きたいと子どもが言い始めたとすれば、木工職人スタイルの親は動揺するかもしれない。

 子どもは、小さな頃から「自分が本当にやりたいこと」を探すように言われる。しかし、何であれ、「それ」がやりたいかを知ることができるのは、その世界を垣間見たことのある者だけだ。哲学の本を読んだことも、哲学者に会ったこともない人が、哲学に興味を持つことは難しいし、海に関する情報から切り離されて育った子どもが、海に関わる仕事や生活を想像することはないだろう。

 要するに、庭師は、子どもに機会を提供しようとする。様々な素材=教材を与え、それによって自分なりに試行錯誤し、世界との関わり方を覚え、想像もしなかった様々な事柄を知っていく。こうした「探索」と呼ばれる行為は、遊びによって鍛えられることで知られる。庭師は、大人には「何かに習熟する学習」が必要だが、子どもには「何かを発見する学習」が大事だと考えている。庭作りは、探求のための遊び場を作ることだ。

素材=教材を工夫すること

 少し角度を変えよう。東大ロボで話題になった新井紀子が『AI vs.教科書が読めない子どもたち』で、AIに比べても、子どもたちの読解能力が低いという問題について指摘すると、多くの人が、子どもの将来や教育についての不安を感情的なまでに口にした。

 しかし、設問そのものに問題はないのだろうか。子どもたちを測る指標そのものに問題はないのだろうか。それを通じて子どもを教育することが、本当に必要なことなのだろうか。そのような視点から、平田オリザは新井の取り上げた問題にこうコメントする。

〔私は〕言われるような「危機的な状況」も感じなかった。あのような特殊な「設問」に答えられるのは、この手の問題に慣れている子供たちだけだからだ。/おそらく、『教科書が』に出てくる問題を繰り返しやらせれば、その正答率自体は上がる。(平田オリザ「これから求められるのは『AIに解りやすいように喋る』能力ではないか」)

 むしろ、平田は、「どうすれば誤解を受けない文章を書けるかという能力や、誤読があることを前提にして、その事後処理を準備しておくという発想のほうが大事」だと考える。そこで、平田が提案するのは、学生たちが取り組んで探求する「設問」自体を工夫することだ。

 平田の提案から学び取ることができるのは、何か子どもの現状について不安を煽られる度に直接的な「対策」を講じて、子どもに何かを強制するのではなく、子どもこそが教育の主人公なのだから、私たちの側の工夫によって問題に対応しよう、という姿勢である。これは、大人の側の責任を思い出させる点で非常に重要なことだ。

私たち、大人の仕事

 平田は、子どもに与える「素材=教材」を工夫することで、より探索的な学習に導くことができると指摘する。これは、哲学者の成瀬尚志らが『学生を思考にいざなうレポート課題』(ひつじ書房)で試みたことと一致している。同書では、剽窃(コピペ、パクリのこと)を嘆くのではなく剽窃しにくい論題を考える、適当に答えずに自分なりに考えなければ書けないような課題を設定するといった、教員側の工夫について様々な提案がなされている。

 平田のそれも、成瀬のそれも、論題や設問を工夫することで、学習者が試行錯誤するための「庭作り」の試みだと言える。それは、学習者が自分なりに試行錯誤し、探求できるような「遊び場」を作り、「遊ぶ」機会を提示することに等しい。これは、ひどく重要なことのように私には思える。

 私たちの仕事は、子どもを特定のタイプへと工業製品のように育てることではない、とゴプニックは言う。

私たちの仕事は、何をしでかすかわからないさまざまなタイプの子が元気に生きられるよう、愛と安全と安定がそなわる保護された空間を与えることだ。私たちの仕事は子どもの頭を型にはめることではなく、その頭脳が許される限りあらゆる可能性を追求できるようにすることだ。私たちの仕事は子どもに遊び方を教えることではない。おもちゃを与え、子どもが飽きたらまたそのおもちゃを拾い上げることだ。(p.19)

 私たちは、「木工職人」であることから逃れがたい。日々の業務や、学校、文科省等々から出される規則が、子どもの「質」に注意を向けさせる。子どもを「管理」したいという欲望を捨てることは、想像以上に難しい。さらに言えば、こうした試みのすべてが、害悪だというわけでもない。しかしそうだとすればますます、ゴプニックの語りに、私たちが耳を傾ける必然性がある。

 彼女が提示するのは、驚くような子育ての秘密ではない。彼女は魔法を教えない。教育に万能の方策はない。ただ泥まみれになって庭を作るほかないという、シンプルだが実践の難しい仕事の存在を、ゴプニックは私たちに思い出させている。


アリソン・ゴプニック『思いどおりになんて育たない: 反ペアレンティングの科学』森北出版https://www.amazon.co.jp/dp/4627854315/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_Sy15DbVR1SFE9

(*)マチルダゆか「思いどおりになんて育たない : 反ペアレンティングの科学」
https://note.com/yukamatilda/n/nda4d6cee5c39

山口つばさ『ブルーピリオド』1巻 (アフタヌーンコミックス)
https://www.amazon.co.jp/dp/B07873642C/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_CpY6Db1ERZDCY

平田オリザ「これから求められるのは『AIに解りやすいように喋る』能力ではないか」
https://mi-mollet.com/articles/-/19279

成瀬尚志編『学生を思考にいざなうレポート課題』(ひつじ書房)https://www.amazon.co.jp/dp/4894768275/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_ook6Db2ZK27J9


2019/12/23

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?