見出し画像

「疑う」ことが何かも知らずに

(※この記事は2019/12/09に公開されたものを再編集しています。)

人は「疑う」ことを求める

 一頃、地頭力という言葉が世人の口に上っていた。その言葉を普及させたコンサルタントの細谷功は、「自分の頭で考える」ことを次のように定義する。

要は「自分の頭で考える」ということは、すべてのことを鵜呑みにせず、言われたことや見聞きしたことに対してすべて疑ってかかり、必ず自ら検証し、他人とは違う自分なりの見解を導き出すことです。(細谷功「考えるとは「疑ってかかる」こと」)

恐らく、多くの読者が「なるほど」と思うのではないだろうか。どのような業界であれ、「問う」「疑う」ことは非常に重要だろう、と。

 類似の視点は、『武器になる哲学:人生を生き抜くための哲学』で話題になった山口周にも見られる。

イノベーションというのは常に「それまでは当たり前だと思っていたことが、ある瞬間から当たり前でなくなる」という側面を含んでいます。つまりイノベーターには「当たり前」を疑うスキルが必要だということです。(山口周「リベラルアーツは「社会人としての教養」、ではない」)

ここから読み取れるのは、基本的なスキルや知識を身につけてもらった上で、物事の基本的な前提を疑いながら、自分なりに問題状況に取り組んでいく「哲学的」態度がビジネスに求められるという指摘である。

 これまでに使った言葉を適当に組み合わせて検索すれば、類似の主張をしている人、これらの著者に賛同するブログなどが無数に見つかるだろう。「疑うの大事よなー」という言葉に、建前としては多くの人が同意することと思う。

「疑う」ことが何かも知らずに

 しかし、待ってほしい。こうした自己啓発的な言説には、「あなたは特別になれる」というメタメッセージを伴っており、耳に心地いいものがある。だからこそ、私たちは共感する前に立ち止まらなければならない。

 「問う」とはどういうことなのかを深く考えないままに共鳴していないだろうか。「疑う」という心の状態について、私たちは果たして何を知っていると言えるだろうか。

 こうした漠然とした課題に取り組むとき、私たちが採用することのできる一つの方法は、先人の頭を借りることだ。今回力を借りるのは、プラグマティストとして知られるアメリカの哲学者、チャールズ・サンダース・パースである。

人は「懐疑」から逃れたがる

 パースは、「懐疑(doubt)」と「信念(belief)」という用語を導入した。

懐疑は、不安かつ不満ある状態で、私たちはそれから何とか自由になろうとし、やがては信念という状態に至ろうとする。他方で、信念は、安定的で満足ある状態で、私たちはそれを避けたいとは思わないし、何であれこれとは別の信念に変更したいとも思わない。それどころか、何かを信じることだけでなく、自分が現に信じていることを信じることに、頑固に固執する。(「信念の固定化(“Fixation of Belief”)」)

ここでの「信念」は、強い思い入れや、体系的な思想のことではない。さしあたり安定した形で自分が持つ「考え」くらいの意味で理解して構わない。「何かを信じる(believe)」ことの名詞表現だ。

 ここで重要なのは、「懐疑から信念への移行」があるということだ。「懐疑」を抱くとき、私たちは落ち着かない気持ちになって何らかの回答や判断(=信念)へと至ろうとする。つまり、懐疑という落ち着かない状態そのものがトリガーとなって、信念という安定状態を目指す運動が生じる。

 この動きを、パースは「探求(inquiry)」と呼ぶ。観察したり、推理したり、比較したり、人から意見を聞いたり、本を読んだり、実験したり、計算したり、固執したり、習慣的に処理したり、議論したりすることで、探求は進み、何か安定した意見や判断(=信念)に到達するまで続く。

誰も「疑問」を強制できない

 「探求」という論点から、一つ実践的に重要なことが学べる。私が何かを疑っているとき、実際に疑っている、ということだ。「急に哲学者っぽいことを言ってどうしたんだこいつは……」と思ったかもしれないが、難しい話ではない。ある概念やフレーズを疑問形に変えたところで実際には疑っていない、というだけのことだ。

 「愛とは何か」「この企画を成功させなさい」「君には何が足りないと思う?」「新規顧客を開拓しろ」――何でも構わないが、その人自身がその問いに適切に巻き込まれているのでない限り、それは「疑っているフリ」「問うているフリ」にすぎない。疑問や課題をただ口にしたところで、それだけでは、空っぽの独り言だ。

 何も難しい話ではない。上司や先輩からピンとこない課題を与えられたとき、「とりあえず上が問題にしないように動こう」と考えるということは、多くの人に心当たりがあるのではないだろうか。しかし、それは、懐疑なき行為にすぎず、探求ではないのだ。

「疑問」を抱けるフレームを設定する

 教師や上司、先輩など「人を導く」役割の観点から、「問う」「疑う」という行為について考えてみよう。これまでの議論から直ちに言えるのは、「これを考えろ」「これについて疑え」と、他者に状況を強制するだけでは中身が伴わないということだ。学習者や部下は、それに取り組むかもしれないが、大抵の場合、単に取り組むだけで「自分の課題」と捉えているわけではない。そこに懐疑はない。

 ただただ課題やクリア条件を示すのは、課題に取り組む側に、上が問題にしない範囲で行動しようというインセンティブを与えることにつながる。この観点からすると、人を動かし、導く側の人物が果たすべき役割は、個人や集団の関心や傾向性に合わせて、適切なフレームを設定することだと言える。

 仕事を任せる学習者や部下が、どのような知識・関心を持つのかを見極めながら、その中で「懐疑」を抱いてもらえるような枠組みを用意し、「探求」してもらえるようにすること。これが、人を導く役割を持つ人物がなすべき仕事である。「問え」「疑え」と言う前に、私たちにすべきことがあるとすれば、その人にとっての「疑い」が生じるような課題設定や環境整備をすることなのだ。


チャールズ・サンダース・パース(1839-1914) アメリカの哲学者で、プラグマティズムという潮流に分類されるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9

ジョン・デューイ(1859-1952) アメリカのプラグマティスト。哲学者、教育学者。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4

考えるとは「疑ってかかる」こと | 考える練習をしよう | ダイヤモンド・オンライン
https://diamond.jp/articles/-/148202

リベラルアーツは「社会人としての教養」、ではない | 知的戦闘力を高める 独学の技法 | ダイヤモンド・オンラインhttps://diamond.jp/articles/-/150352

学習者を「導く」という観点からの議論について関心があれば、右の本を参照されたい。ジョン・デューイ『学校と社会・子どもとカリキュラム』講談社学術文庫https://www.amazon.co.jp/dp/4061593579/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_uHP1DbKGQ63HR


2019/12/09

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?