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誰もが疎外を感じる時代のアイデンティ―アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』レビュー②

(※この記事は2020/04/10に公開されたものを再編集しています。)

交換の論理と自己啓発

 市場は、人間を根本的に交換可能なものとして扱う。ある人が占めている位置は、他の人でも構わない。何らかの成功をおさめたとしても、その人が達成しなくてもおかしくなかったはずだし、今成功したのは偶然にすぎない。ある条件さえあれば成功するという単純な見方が通用しない。かくして、人は暮らしの中で根本的に不安を抱かざるをえない。

 そこで利用されるの、成功譚や居場所による「自己啓発」である。近藤麻理恵を例に挙げながら、アイデンティティとコミュニティを利用して収益を上げるビジネスの存在に言及した。そして、効率のよい業務遂行のために、アイデンティティを利用するのは、善かれ悪しかれ常識と化している。以上が前回のあらましである。

 アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(ちくま学芸文庫)を見ていく前に、彼が曖昧にしか定義していないので、いくつか用語を導入しておきたい。

  • アイデンティティ:他者との関係において自己を把握するとき、正面に押し出される帰属先のこと

  • 帰属先:属している(ことになっている)コミュニティ、準拠集団(女性、アジア、トランスな ど、現実に組織化されていない理念的な集合を含む)

  • 属性:特定の特性や来歴など、人を特定の帰属先に結びつける(とされる)トリガー

 なお、訳文も文脈に応じて上の用語に置き換えている。さて、議論に入ろう。

アイデンティティ1.0という単純な思想

 マアルーフは、批判されるべきアイデンティティ観を、「単純なアイデンティティが存在」するという考え、「アイデンティティがただ一つの帰属先しかないという考え方」と述べている(pp. 40-1)。この考えをドライブするのが、一番深いところで自己を規定する「本質」があるはずだから(p. 9-11)、自己が所属する複数の帰属先に序列があり(p. 36)、従って、たった一つの帰属先が、アイデンティティとして、その人の「顔」になっているはずだという信念である。

 恐らく、読者の多くもそうしたアイデンティティ観を持っているはずだ。こうした見方を、ビジネス書風に「アイデンティティ1.0」と名付けておこう。そもそも、どの集団を帰属先だとみなすか(人をどうカテゴライズするか)というのは、同胞であれ敵であれ、常に他者の影響がある(p.34-5)。というのも、人は一番攻撃に晒されるものを自分の姿だと考えがち(p.36)であり、「正当防衛」(p. 43)に駆られた人びとは、自分たちの様々な繊細な違いを無視して「同じアイデンティティを持つ」という一点で、無批判的に結びついてしまうし、他者を大雑把にカテゴライズしてしまう。前回確認したように、こうした見方は、他者や自己自身の否定へと、往々にして、現実的な暴力へと人を駆り立てかねない。歴史はそれを幾度も実証している。

肌に描かれた模様としてのアイデンティティ2.0

 ただし、「ある属性があるから、ある帰属先に自己がカテゴライズされる」という事態は、実情を見れば、単純にはではないことがわかる(pp. 33-4)。ある経験(例えば、ムスリムとして生まれること)は、文化や時代や地域によって異なる。というのも、カテゴライズのされ方自体が異なるからだ。加えて、現実の私たちを見れば、同じアイデンティティを持つかに見える人同士(例えば同じ「女性」、同じ家族の一員)が、それ以外の点で多様な属性を持ち、異なる経験をしているだろう(p. 30-1)。「アイデンティティ2.0」は、こうした事情を考慮した上に提案される。

 マアルーフの提案をシンプルに言えば、序列なき多重の帰属先を自己にも他者にも認め、それをアイデンティティと捉えることだ(p. 47)。彼の議論を好意的に読めば、「序列なき多重の帰属先」と言っても、帰属先の評価を禁止するわけではなく、特定のコミュニティを自己の「本質」として位置づけないということのようだ。

 だが、「分人だ!」「複合的アイデンティティだ!」という話でもない。様々なコミュニティの遺産をつぎはぎした「パッチワーク」として、複数の帰属先を捉えるべきではないと彼は言うからだ。むしろ、アイデンティティは、人の肌に描かれた模様のようなもので、その一部に触れられるだけで「その人のすべてが震える」(p.36)。それらは区別されながらも重なり合いながら、いずれも等しく私たちそのものであるかのように、私たちの全身に描き込まれている。

特殊性と高潔さの論法――マアルーフの問題

 そもそも安定を得たい、安心したいという欲求は根源的ではないだろうか。だとすれば、アイデンティティの欲求は消すことができるものではない。マアルーフもそのことを認める。私たちにできるのは、ヒョウを殺すことでも、野生に放つことでもなく、ヒョウを飼い馴らすことだ、と(p. 167-9)。要するに私たちにできるのは、不安や恐怖などの否定的な感情をマネジメントしながら、アイデンティティの欲求と、うまく付き合い続けることだ。「アイデンティティ2.0」は、アイデンティティの不安を「飼い馴らす」ことを求めている。

 こうした議論は心を励ますものがあるし、大筋において私も賛同する。けれども、彼の議論には無視できない問題もある。ここでは、彼のアイデンティティ論が、「特殊性」で勝負している点と、マイノリティの側に「道徳的高潔さ」を求めているように見える点を挙げておく。

 帰属先の全体を見れば、人は誰しも他の人と違う。あるいは、系譜をどんどん遡れば、大抵多様な属性を持つ先祖がいるはずだ。だから他者とあなたは全然違う。――そうした論法をマアルーフが用いている箇所がある(p. 28)。こうした論法は、他者との違いを素朴に示すことで、「特殊性」を目指している。しかし、アイデンティティにおいて重要なのは、(たとえ多少属性が変わったとしても)その人がその人であるということ、つまり、「単独性」への承認ではないだろうか。これは、特殊性が問題にならないかのように、互いに交流し合う親密性の問題でもある(*)。マアルーフは、この点を決定的に見落としている。

 加えて、マアルーフは、マイノリティに対して、異なる属性を持つ集団への「敬意」をあまりに素朴に求めすぎているように見える(p. 37, 41)。道徳的高潔さを示すことで、差別的な社会構造を打破するという試みは実際にあった。しかし、差別的な現状は常に高潔さによって超克されるわけではないし、そうせねばならないわけでもない。あまりに素朴に相互尊重を要求してしまうと、「マジョリティに理解のあるマイノリティたれ」という発想をもたらしかねない。少なくとも、「理解」はマイノリティ側の仕事として押しつけられるべきではない。それにこうした論法は、マイノリティ内分断をもたらしかねない――高潔さに欠ける手法で現状を訴えるマイノリティを、主流派が否定して分断が起こるということはしばしばあった(教会の外で宗教的な救いを求める流れを描いた、山下壮起『ヒップホップ・レザレクション』など)。

 とはいえ、敬意の要求が金科玉条になってはいけないと指摘しているにすぎず、人間の相互尊重や基本的な敬意が重要でないわけもないし、高潔さを示す人物の立派さが損なわれるわけではないのだが。

誰もが疎外を感じる時代

 マイノリティというと、マアルーフは、違う角度から面白いことを言っている。彼は疎外論を展開し、誰しも自身がマイノリティだと感じる時代として、現代を特徴づけた。

私たちの時代においては、誰もがいくらかは自分が少数派であり、疎外されていると感じている……。あらゆるコミュニティ、あらゆる文化が、自分より強力なものと競い合っているような感じがして、これまで受け継いできたものを無傷のまま保存することはもうできないと思っているからです。(p. 146)

これは、多重の帰属先を意識せざるをえない移民や、アフリカ系アメリカ人のような人たちだけに該当する話ではない。

 あらゆる人が自身の利益や文化が奪われているかのように感じる時代。人間の心の傾向は、この疎外に拍車をかける。人間は恐怖を抱くと、実質的な危険よりも、恐怖という心理的不安を優先するからだ(p. 39)。ひと頃、台頭が叫ばれていた新保守主義(ネオコン)のキーワードが「セキュリティ」(安全/安心)だったこと印象的であり、明らかに、その背後には疎外の感覚があった。

 そして、ネオコンを初めとして、不安を抱く人びとがネーション(国家)という括りに殺到したのは無理からぬことだった。マアルーフが喝破したように、ナショナリズムは、問題を解決するのでも、危険を回避するのでもなく、犯人とされる存在を名指し、雑駁なはずの人びとをまとめあげる働きを持つからだ(p. 98-9)。ナショナリズムは、不安を解消しないが、不安をつかのま忘れさせてくれる。

 「たったひとつしかない祖国において、宗教的、民族的、社会的、その他の理由から、自分のことを『少数派』だとか『疎外されている』と感じている者」にも関わると、彼が書いていることは示唆的である(p. 186)。というのも、この本の原典は20世紀末(1998年)に出版されたにもかかわらず、『チャヴ:弱者を敵視する社会』(ジョーンズ)、『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(ホックシールド)、『ニック・ランドと新反動主義』(木澤佐登志)といった書籍が明らかにする、現代のマジョリティたちの疎外の感覚を予告しているかのようだからだ。


(*)「人と深い関係になるのが怖い、そんなあなたへ。東畑開人と鈴木悠平が語る親密な関係の築きかた」
https://soar-world.com/2019/09/12/towhatasuzuki/

山下壮起『ヒップホップ・レザレクション:ラップ・ミュージックとキリスト教』https://www.amazon.co.jp/dp/4400310906/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_hVXEEbCEN8VTN

オーウェン・ジョーンズ『チャヴ:弱者を敵視する社会』https://www.amazon.co.jp/dp/4903212602/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_QGYEEbHBGSXQY

A. R. ホックシールド『壁の向こうの住人たち:アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』https://www.amazon.co.jp/dp/4000613006/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_xHYEEbHG3QHB1

木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義:現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』https://www.amazon.co.jp/dp/4065160146/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_bIYEEbHWHD4A3


2020/04/10

著者紹介

谷川 嘉浩
博士(人間・環境学)。1990年生まれ、京都市在住の哲学者。
京都大学大学院人文学連携研究員、京都市立芸術大学特任講師などを経て、現在、京都市立芸術大学デザイン科講師、近畿大学非常勤講師など。 著作に、『スマホ時代の哲学:失われた孤独をめぐる冒険』(Discover 21)、『鶴見俊輔の言葉と倫理:想像力、大衆文化、プラグマティズム』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学:ジョン・デューイとアメリカ哲学の系譜』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など多数。

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