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note始めました&自己紹介

noteへの初投稿です。

ここでは、

学びや教育、子どもの居場所、子育て、保育、学校、地域、コーチング

といったテーマについて、単独だったり色々関連させながら記していく予定です。


まずは自己紹介から始めますね。自分での振り返りも含めて、そして母と父への感謝を込めて書いているので少し長くなるかもしれません。お時間ある時に、お茶でも飲みながら読んでください。
コダカナオキという人間を知るための、またこれまでの人生史的なものだと思って読んでいただければ。うまくまとまってはいないかもしれないですが、内容はいたって真面目です笑。

と書いていたら本当に長くなりそうなので、2部に分けます笑。

まずは簡単に

小高直樹(こだかなおき)、1975年生まれの、2020年で45歳になります。
身長は184㎝、体重はだいたい75㎏くらいで、まぁまぁの体形は維持しつつも、明らかな筋力不足と体力不足を感じる年ごろになっています。
健康面では、タバコも吸わないし、お酒もあまり飲まないので、今のところそんなに心配していることはないのですが、家系的に血管関係は気を付けないとなぁと思っているところです。

50歳までを一区切りと考えていて、それまでにやりたいことがたくさんあって困るくらいなのですが、そんなやりたいことをひとつひとつ実現していっている今です。

生まれも育ちも東京(足立区→港区→府中市→世田谷区)、父は東京築地(今の豊洲)で仲卸業を営み、母は専業主婦として、私と3歳下の妹を育ててくれました。子どもの頃の父はあまり話をしない人で、自分にとっては怖い存在、それを緩和してくれたのが母の存在でした。

社会人になってから母に言われたのは「あなたは、特に何も言わなくても、任せておけば大丈夫だと思って育てた」と。確かに、あまりあれこれ言われたことはないなぁと。
この一言は、親が子どもを信じるという、私の子育てにおいての一番大切にしていることで、そして子育ての土台になっています。

そして、今振り返ると、そんなあまり話をしなかった父が自分に伝えてくれた言葉が今の自分をつくってくれているようにも思います。

そのひとつが、「立派そうな人間ではなく、立派な人間になれ」という言葉。これは確か大学生の時に言われたと記憶しています。

その時はよく分からなかったですが、今は、

地位や名誉というもので自分をつくるのではく、また人を判断するのではなく、自分がどう生きるかをしっかり考えて、自分の人生は自分でつくっていけ

ということだと捉えています。

父は、祖父が体を壊したことで、自分の夢をあきらめて仕事に就いたという経験があるので、その意味でもこの言葉を伝えてくれたんだと思っています。

ほんとうに、大切なことを伝えてくれた母と父には感謝しかありません。
そして、

今は自分の子どもたちや周りにいる子どもたちにしっかりと伝えていこうと、それが親孝行にもなるかなと思っています。

学生時代(小学校から大学)

さて、私の話に戻ります。書き出すと色々止まらなくなりますね笑。

小学校は港区の高輪台小学校、赤穂浪士で有名な泉岳寺のそば。
中高は私立の関東学院に進学しました。中高は学校終わりによく繁華街に出かけて行って遊んでました。
その当時は、伊勢佐木町や関内(分かる人には分かる場所)に行って、仲間とボーリングやビリヤード、カラオケをして遊ぶのが中心でした。よく中華街にも行ってたな。
と言っても、別にそんなに不良ではなくて、いたって真面目な学生だったと思いますよ。

そして、高校時代は、よく「自分は何のために生きているのか?」を考えていました。ほんとうにどうして生きていこうかと。それを考えすぎて、よく分からなくなることもしばしば。
どちらかというと内省的な性格だと思うし、その部分は今も変わっていないと思います。
そんなに暗くはなかったと思っているんですけどね笑。ただ、どちらかと言えばつるむよりも、少人数でいるかひとりでいることが多かったです。
あっ、ちなみに彼女は高校3年間いました(ここは別にどっちでもいいですかね笑)。

大学は東京理科大学の理工学部経営工学科に進学。
実は自分の中では青学に行きたくて、一応合格もしたんですが、なぜか理科大に進学しました。今でも謎です笑。
進学後はあまり勉強はせず、アルバイトと自分の活動に専念。もう少し勉強しておけば良かったなぁ~。
アルバイトは塾の講師をずっとしていて、これも今と繋がっていますね~。きっと教えるということが好きだったんだと思います。

大学卒業後

大学卒業後は、東京を生活の拠点にしながら、23歳で第1子(長女)が誕生し、26歳で第2子(長男)、29歳で第3子(次女)と3人の子どもに恵まれました。そして、子どもの誕生と大学生の時に友人に誘われた始めたスキューバダイビングでの経験が、その後の自分の人生をつくり動かしていくきっかけになっています。

今は長女が21歳、長男が18歳、次女が15歳で今年中学卒業。ここまでよく育ってくれたなぁというのが率直な思いです。きっとそれぞれに自分の人生をつくって歩んでいくと思うし、それを願っています。色々チャレンジてみてればいいし、色々考えてよく分からなくなってみてもいいし、立ち止まってもいいし、うまくいかいことがあっても、きっと大丈夫。面白い人たちは周りにたくさんいると思うので、自分を信じて、自分の価値観をしっかり意識しながら、外に目を向けて欲しいなぁって思います。

さて、また自分のことに話を戻して・・・

東京では会社員として勤めながら、何回かの転職も経験しつつ、ここでも常に自分がどう生きていくかを模索していました。転職も重ねること4回。今思うと模索というより迷走していたのかも。
なので、周りにはたくさん負担も心配も掛けていただろうなと。
それでも、最後の転職先の河合塾での経験と出会いは、何にも代えられないかけがいのないものになっています。そのあとの自分の考え方や行動の指針になるような、そんな時間でした。

この間、長男は小学3年生から学校への行き渋り、そして小学4年生の2学期からは学校に行かなくなりました。いわゆる不登校ですね。小学3年生の時には夜中に行方不明にもなり、少し離れた公園のベンチで寝ていたところを発見させるということもあったり、自分の中でも子育てを試行錯誤していた時期でした。
そして、学校に行かなくなるという経験は自分自身もなかったので、それを分かってあげることも受け入れてあげることも出来ず、1年くらいは学校に行かせることを考え行動する日々で、私も正直悩んでばかりでしたが、何より長男にとって大変な毎日だったんではないかと思います。
会社に行きがてら長男を学校に送っていったものの、学校に入らず、そのまま家に帰すわけにもいかず、職場まで一緒に行ったことが1度だけあります。ランドセル背負って電車乗って。
それでもなんとかなったのは、児童館が彼を受け入れ、彼の居場所として存在してくれたからで、児童館の存在は何より有難かったです。今でもその時の繋がりがあるようです。

この時に自分が感じたことは、今の自分の活動にもしっかりと繋がっています。

そんな時期に、結婚生活に一区切りも付けました。持ち家だったので、家を売るのも結構大変で、ものすごく慌ただしく毎日を過ごしていた記憶があります。
離婚の原因は、様々です。
それぞれに思うところがあったし、今はそれで良かったと思っていますが、子どもたちにとってはどうだったのだろうと、特に色々なことが分かる年齢になっていた長女への心の負担はかなりあったはずです。

”パートナーシップ”について色々考えたのはこの時期ですね。

離婚後は長男との二人暮らし。父子家庭生活を送っていました。長男は学校に行っていなかったので、お昼のお弁当作りはここからスタート。今思うとよく作っていたなぁ~と。

そして、この間に長男を連れて頻繁に行っていたのが今の生活拠点の安曇野でした。
安曇野では地球宿という農家民宿を常宿にしていました。この出会いが、安曇野への移住を決めるきっかけにもなりました。そして移住後も、長男と私のことを支えてくれる存在にもなりました。

地球宿と、そこのオーナー増田望三郎さんには、感謝しかありません。
移住後も、地球宿は大切な心の居場所になっています。

望さん、ありがとうございます!

ということで前編はここまで。最後まで読んでいただきありがとうございます。
安曇野移住後については、後編に書きます。

どうぞお楽しみに^^

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