大和心(大和魂)について

誠におこがましい限りですが、僭越ながら私なりの思いを書き綴らせていただきます。そもそもこの言葉の解釈は言語化できません。ただ、考えて語るのは自由かと思って書いています。

・「私」という存在について
 「私」は何をもってして「私」なのでしょう。体全体が「私」なのか、考えを巡らす脳が「私」なのか、心臓がそうなのか、この意識だけが「私」なのか、人によってはメガネを指してこれが「私」だと言うかもしれません。物理的に個体としての「私」を捉えようとすればするだけ疑問が生じて止みません。
 一つ一つの細胞はどうでしょうか。もし、「私」を構成する細胞の一つ一つに、意識が存在するとしたら、この膨大な数の細胞一つ一つが、『ワタシこそが「私」なのだ』と感じているかもしれません。
 国を構成する一員としての「私」たち一人ひとりは、そういう意味ではいてもいなくても、全体としては大した存在ではないのかもしれません。でも、細胞一つ一つであろうが、国を構成する一人ひとりであろうが、「私」にとって「私」はかけがえのない存在であることに変わりはありません。
 上記のように、大小に関わらず万物は部分でもあり全体でもあります。例えば日本という国はそれを構成する日本人一人ひとりそのものであると捉えることもできるわけです。

・日本は天皇がシラス国
 仮に日本という国を一つの生命体としたとき、我々国民が全体を構成し、天皇がその生命体の意識にあたる存在なのではないかと考えます。日本と日本人は、その天皇によってずっと昔からシラス統治されています。シラスには知らす(知る)、治らす(治める)、添らす(添う)の意味が込められています。権力を振りかざして支配する構造でないことは一目瞭然です。天皇は国と国民を隅々まで知り、治め、もちろん寄り添います。自分自身のことを大切に思わない訳はありません。
 同様に我々日本国民一人ひとりも、自分自身と家族や隣人、関わる全ての人々、そして天皇を大切に思います。日本人である以上「私」は部分でもあり全体でもあるわけですから。

・「個」への執着を強いる社会構造が奪う幸福
 戦時中、大和魂でもって逝かれた方々は大切な家族への愛に満ちていたはずです。たとえ生命体としての個が物理的に朽ちようとも、大和心は家族や他の多くの日本人によって生き続けます。そうやって戦前の日本人は強く美しく、幸福を感じて生きていたはずです。
 日本人の心の在り方を概念として捉え理解することができなかった諸外国によって、日本人にとって当たり前の概念を途絶えさせられました。
 こともあろうに、最も利他の精神において優れ、遥か先の精神性を持って歩んでいた日本人が、今では諸外国の浅はかな制度でもって個の尊重を指導される立場になろうとは、なんとも悲しい実情です。

・大和心は「愛」、「美しさ」、「絆」、、、美しい言葉を並べると全て当てはまる
 「情けは人のためならず」という言葉があります。他人のための行いが巡り巡って自分に返ってくるという話ですが、これは実はもっと直接的な話だと思います。巡り巡ってではなく、利他行動は自分自身のためにした行いそのものでもあるわけだから、その時点で完結しています。
 つまり、大和心という愛と絆でもって日本人は相互に支え合っている美しい国民であると言えます。


つらつらとまとまりのないお話をしてきました。最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

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