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「分断」に気づかないまま人生を過ごしていたのかもしれない。

30分で書く文章、2日目。
2日目にしていきなりパスしそうになった、危ない危ない。

きれいな明るい満月だったので、撮ってカバー写真にしようと思ったけど、スマホのカメラのズームがイマイチだったので、諦めました。


昨日Facebookで気になった記事があったので、今日はそのことを書こうと思う。

気になった記事というのは、この記事↓

元の文ははてな匿名ダイアリーなのですが、こちらを読んでからのほうがよいかも↓

これ読んで、みなさんはどう思いましたか?


これにどういう感想を持つかって、その人の生きてきたバックグラウンドに大きく影響されると思うんです。
ちなみに私はというと、こんな感じ。
(Facebookでこれを載せてた方の投稿につけたコメントをそのまま転載)

これ、田舎に住んでる今となってはめっちゃ共感しかないのですが、自分も大学時代とか東京にいた頃の自分だったら「あんたが悪い」方に感じてただろうなーと思います。
この「分断」があることすら、花山に来なかったらわからなかっただろうなーと。
一方で、このSNS全盛時代の高校生とかは、一応インスタとかTiktokとかで都会のトレンドは「見える」んですよね。見えるけど掴めない、また別の残酷さもあるのではないかと思ってしまいます。

後段の「見えるけど掴めない」的な話はいったん置いとくとして、
今となってはこの投稿主の気持ちはだいたいわかるし共感のほうが強いのですが、
首都圏出身の私は、おそらく今住んでいる田舎の環境に来るまでは、こんな「共感」の気持ちを持つことはおそらくなかったのだろうなーと。

というのも、今となってはこの投稿主が書くような環境が実際に存在しうるのだ、ということを、(自分自身は経験していないまでも)リアルに実感することができる一方で、
おそらく首都圏にいたときは、こんな話はとてもフィクションにしか思えなかっただろうなーと思うのです。


自分は勉強はわりとできたほうで、塾とかにも通わせてもらって、周りにも受験勉強をがんばっている人が当たり前にいる環境の中で育ったから、あまねく他の場所にもそういう環境があり、勉強ができる人は全国どこでもそうやってがんばっているのだろう、と思っていた。

けれどそれは違っていて、あくまで私がそうできたのは「周りにそういう環境があった」からだった。
『数多ある高校・大学の中から行きたい高校・大学を自分の意志で選ぼう』
『決めた志望校に合格できるように、勉強をがんばろう』
『余暇の時間を、自分の見識・教養を広げるためにも使おう』
そんな価値観を「当たり前」とする環境で育ったから、伸びしろを伸ばすことができた。

でも、もし自分で考えて選べるほど、とりうる進路の選択肢がなかったとしたら?
周りに受験勉強をがんばるような友人・同級生が誰もいなかったら?
パチンコに行く、ゲーセンで遊ぶ、酒を飲む以外に余暇の過ごし方がなかったら?

この投稿主のように、たとえ同じポテンシャルを持っていたとしても、自分に伸ばせる伸びしろがあることすら知らぬままなのだと思う。

……ということもおそらく、受験勉強をして大学に行き、就職して、という「レールの上」の人生を送っていたら、まずもって知ることはなかった。


首都圏にいたころの自分は、きっとこう考えていただろう。

ーーー『とりうる進路の選択肢がない』って、市外や県外まで広げて考えれば、いくらでも選択肢はあるよね?
ーーー確かに家の近くにはめぼしい娯楽はないかもしれないけど、仙台まで来ればいろいろあるよね?

でもそれは違う、違うんだ。
確かに、視野を広げてみればいろいろなものが見える、そりゃそうだろう。
でも、周りにそういうものの見方をする人がいなければ、そもそも「視野を広げて考える」ということすら、当たり前じゃなくなるんだ。

それぞれの環境(コミュニティ)には、そこにいる人たちが自然と持っている<『当たり前』の閾値>がある。
自分の価値観、「当たり前」がそこで規定されているのだから、この投稿主のように、その閾値を突破して「見えなかったはずの世界」 へたどり着くのは、きっと相当な困難を伴うし、誰しもにできることではない。


<『当たり前』の閾値>の差が生まれる背景には、もちろん構造的な問題もある。
都市部と比べて地方は、何をするにしても、選ぶに難を要しない選択肢の絶対数はまず少ない。
そもそも、家から10分も歩けば電車に乗って隣県好きなところまでひゅっと行ける土地と、
どこに行くにも親に車で送り迎えしてもらう以外の実効的な選択肢がない土地では、あまりにスタート地点が違いすぎる。

それに、仮に閾値を伸ばせた人がいたとしても、彼らは得てして都会に行ってしまい、その多くは戻ってこない。まさにこの投稿主のように。
そうやってまた、地方は「<『当たり前』の閾値>が高いロールモデル」不在の状況が続いていく。


もちろん、ロールモデル不在の状況は少しずつ変えることができて、
わずかながらでも、閾値を押し上げていく、そんな人の輪を広げていく企みは、いろんなところで行われている。
自分自身も、周りの人たちの閾値を少しずつ押し上げうると思っているし、自分がここにいる意味、やるべきこと、しっかりとつながっている。


ただ、一方で。
個人の<『当たり前』の閾値>を伸ばすことが、その人の幸せに本当につながるのか、確信を持ってYESと言えない、迷いがある自分もいる。

その人の<『当たり前』の閾値>が上がったところで、家族・親戚・知人など、周りの人々の閾値が変わらなければ、自分と彼らの間にはかえって分断が生まれてしまう。
それって本当に幸せなのか?

この投稿主のように
「目指したい未来」と「周りの人に理解してもらえない、応援してもらえない絶望」の板挟みが生まれてしまうのだとしたら、
そんな状況を生み出すことが、果たして『つくりたい未来』だったのか?

仙台にいたときからうっすら感じていたこの問いは、今この場所に来て、より大きくなり、より自分の足を重くしている。
そして、この問いへの答えは、まだわからない。


今日はだいたい1時間。ちょっとかかったなあ。
そして24時すれすれ。明日はもっと早く着手しよう。今日は早く寝なきゃ。

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