■「対の関係」三次元の秘密■

魂のない肉体は、ただの屍に過ぎない。
同様に、理想のない国家、哲学のない教育は、ただの形骸に過ぎないんです。形骸化してしまった国家や教育は死んだものです。
教育者一人一人が理想的人間像を追求し、それを教育の場で実践していったときに、生徒一人一人に対する方針が定まり、そしてそれが教え子の中に浸透し、教え子に人間としての誇りと自信を喚起する
事ができるのです。

理想は、情熱や希望を人々の関係の間に生じさせることができるのです。それが、絶え間なく新たな発見や更新を繰り返させる原動力となるのです。そして、その情熱がその国の方や施策を生み出していくのです。

故に、哲学のない教育は、何の役にも益にもならない知識や技術を選別の為に暗唱させるに過ぎず、かえって人間を卑屈にさせてしまうでしょう。又、 理想のない国家は、それ自体なんら法も施策も生み出せないままです。それは、それ自体、自己矛盾であり、そうした国の国民が、一部の狂言者によって、あらぬ幻想を抱いた時、悲惨な歴史がまた一つ増える事になるのです。

本気の目的は、原因を見いだす事にあり。原理や原因は、元々、抽象的なものなのです。しかし、それは思弁的な意味での抽象性ではなく、個々の相対的な現象から一般性を抽出するという意味で抽象的、類としての自由度の高い概念構築なのです。
科学は、抽象概念から具体性を見出す事です。

しかし、科学が現実社会や実生活の中で活かされているのは科学概念が現実の現象を根拠としているからです。哲学が実社会んき活かされていく為には、同様に、人間社会の現象の背後にある動機を探り当てなければなりません。

全ての思索や行為は、何等かの動機に根差している。
故に、思索の結論や行為の結果は、その動機に拘束される。
しかし、動悸が結論や結果に拘束されることはない。又、動機は思索や行動として表現された時、認識される。

故に、動機は、思索や行為によって実体化されるが、思索や行為が、動機を実体化するのではない。同様に、個々の現象は原理に拘束されるが、原理が、個々の現象に拘束される事はない。
又、 原理は現象によって実体化されるが、個々の現象が、必ずしも原理を実体化するわけではない。
現象は、一回限りであり、原理は普遍的なものである。

目に見える世界は移ろい易く、普遍的な世界は目に見えない。
しかし、我々は目に見える世界を探ることによってしか、普遍的な世界を知ることができず、目に見えない普遍的世界を見る事はできない。
現実の恋心は移ろい易い。しかし、愛は普遍的だ。 現実の恋の中に愛を見いだせるが、普遍的な愛を、移ろい易い現実の恋と同一視することができない。

自然の現象は変化していくが、自然の法則は変化しない。自然の法則は、自然の現象を通してしかわからないが、自然の現象が自然の法則を変化させることができない。人間は移りゆく現象に目を奪われて、その背後にある普遍的な世界を忘れてはいないだろうか。

人間が滅び、人間が死んだとしても、 それで全てが終わるというわけではない。そこから又何かが始まるのである。


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