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短歌の賞に応募するメリット、または連作歌会をしましょうのお誘い

これは私からあなたへの勧誘活動です。そして結局、言いたいことは最後の段落だけかもしれないので、途中は飛ばしてくれて構いません。


賞に応募するってどういうこと?


社会人になってから短歌を始め、賞に応募したことが何回か*あります。
短歌を作り始めて9年目なのに何回かしかないのは極度の無精者だから(これを書くのもすでに何回か挫折した。脳内では考え続けていたのに)。

最初は純粋な好奇心で「みんな何かに出すものらしいし~とりあえず手元にある歌ぜんぶ集めて送ろっかな~てか賞金あるんだ!」みたいなノリで、何も考えていませんでした。今思うと規定を守れていたのかもあやしい。編集の方、あのときは仕事増やしてごめんなさい。

しばらくして、自分は賞に向いてないとわかりました。向いてない理由がありすぎた。

  1. 受賞したい動機がない

  2. 権威的なものが好きじゃない

  3. 年に数十首も作れない

  4. そもそも技巧派じゃない

1.受賞したい動機がない


致命的に意欲が低い。ちなみに賞に対するモチベーションが高い人って、こんな感じかなと勝手に想像したのですが…ぜんぜん違ったらすみません、あとで個別に教えてください。

※1/20 追記:下記の仮定からは、ジャンルを限らず賞と呼ばれるもの自体のもつトロフィー性や、競争心といった要素が抜け落ちていました。

  • A: 自分は短歌を続けて良いんだという拠り所を持ちたい、他者から認められたい

  • B: 広く読まれたい、有名になりたい

  • C: 短歌関係の原稿をもっと書きたい

  • D: 歌集を出したい

  • E: 短歌の人脈をもっと広げたい

この中だと「E: 短歌の人脈をもっと広げたい」は常に思っています。
ただ、それって「好きなものについて話せる友だちが多いほうが人生楽しいよね!」ということで、仕事がスムーズに運ぶ的ないわゆる「人脈」じゃない気がする。

「A: 短歌を続けて良いんだという拠り所」に関して、使命感とか創作意義とかは残念ながら自分にはない。気が向けば歌集や歌書を読むし、疲れてたら何もしない。短歌そのものが面白いから、読んでみたい本や表現してみたいことが次々出てくるから何年か続いているだけです。

しかも正直、自己肯定感が高めというか自己中心的なので、歌が上手くなくても誰に認められずとも自分が楽しければいいと思っているし、歌を褒められたら嬉しいけど、現実の人間関係には影響がないんです。

もしかしたら人生は長いので将来気が変わるかもしれないけど、今のところB・C・Dは荷が重すぎる。そんな気概はない。割愛します。
ついでに2と4は長くなる気がするのでこちらも今回はスキップします。

3.年に数十首も作れない


これはガチです。前述の通り面倒くさがりなうえ、なんなら体力もなく、月イチペースで寝込んでいるし、仕事が忙しいときは申し込んだ歌会に出るためだけに月に1首だけ絞り出すときもままある。

しかしそんな私でもモチーフが勝手に湧いてくることがあり、「勢い一首の歌に限られず、数首の歌を成立しめる心理的の要求」に従うと「対象から受ける感動が、時間的にも空間的にも相継起して聯り合う場合が生じてくるので、それを継起するままに、聯り合うままに如実に現すから連作的になってくるのであります」**

連作を匿名で評する場を知らない


こうして稀に出来上がる何首かのかたまりについて、他者にどう読まれうるのかを知るすべが、自分のような属性の人間にはないんです。
歌会は大好きだけど、1首ずつが原則だし。

新人賞の応募前に「連作を読む会」が有志で開催されているのは、うっすら見たことがあるけど、自分のような意識低い系に、受賞する気迫に満ちた方々に混ざる覚悟はない。かつ大学短歌会や結社などの横のつながりもない場合、積みます。

属性と切り離したうえで、信頼できる読み手に複数首の感想を聞ける機会ってほぼないです。
短歌の友だちに見てもらうことはできるけど、直接渡したら「私というキャラ込み」で読まれてしまう。

まっさらな状態(というのがあるとして)の他者に、自分が短歌連作で試みたことがどれくらい伝わるのか、共感されるのか、共感はされないけど理解はされるのか、ぜんぜんわからない。のです。

賞に出すという暴挙


こちらが気を遣わなくてよく、匿名で大量の歌を読んでくれる場所はないか?と考えたとき、それって賞の選考では?と思ったんです。

好きな歌人が選をしている賞に出すのは更においしくて、足切りをクリアすれば選考委員に読んでもらえる。
正直、受賞に値する出来栄えだ!と思って出したことはないです。その時々、やりたいことを書いて、どう思われるか知りたい。

だから、実際に選考に残ると、嬉しいよりも先に、やらかしてしまったという気持ちになりました。この世には本気で賞を取りに行っている人がいっぱいいるのに。ほんとうにあたしでいいの?***ってやつですよ。

なんで掲載されちゃったんだろう...。出しておきながら申し訳ないけど、編集部員と選考委員以外(下読みの人もいるらしいとは聞くが)に読まれる想定じゃないんです。こっちは。
自分の稚拙なパッションのせいで、誰かの上手い歌、良い歌が載らなくなったはずで、損失計上させてごめんねとすら思う。

でも、たぶん歌からなにかが伝わっただろうこと/誰かを揺さぶることができた/何らかの感情を受け取ってもらえたこと。それは最高に素晴らしいです。人間存在に対する信頼が増す。その実感があるがために、応募して良かったなと思う。後悔はしていません。

匿名の連作歌会をやりたい


こんなふうに悩むのも、問題は連作や、まとまった数の歌を評しあう場が少ないことなんだと思う。これまでその貴重な輪のなかに入れてくれた短歌の友人に、本当に感謝します。

機会が少ないなら、自分でも断続的に機会をつくっていくほかなく。あまり歌柄を知らない同士、複数人で集まるのが良いのではないかとぼんやり考えています。

オンラインでもオフラインでも、受賞歴があってもなくても、連作歌会のあと賞に応募しても、しなくても、歌集をすでに出していてもいなくても、ノーヒエラルキー****で話せる場が私には必要です。一首ごとの通常の歌会に加えて。

私と頻繁に交流していないけど知り合いで、比較的長く短歌を続けている人は今後、声をかけられる可能性がありますので警戒してください。

いっこだけ大事なのは、評を真に受けない自我の強さのある人とたくさん話せたらいいなということ。

私はあらゆる手法の作品を網羅的に理解できる自信はないので…(努力はしています)。そして一首単位でなく連作となると、ますます読みは複雑化するはず。
だから作品を深く読み解ける人がその場にいなくても、バカにしたり恨んだりしないで、ましてや傷ついたりしないで、ただ自分たちは違う人間だから仕方ないな、と思ってほしい。
そしてもし、誰か尊敬する人に何かを言われても、その作品にとってあなたが重要だと思う部分を変えないでほしい。


今のところはそんな感じです。


*石井僚一短歌賞、笹井賞、歌壇賞
**岡井隆 『現代短歌入門』(講談社)より、土屋文明「現代短歌指針」島木赤彦『歌道小見』を孫引き
***©岡本真帆
****ガルマン歌会のbioより


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