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《8月15日.》

 祖母は優しい。生まれた時からありったけの愛情をわたしに注いでくれている。時に美味しいお料理を通して、時に「まな」と呼ぶ甘い声で、時にわたしのための厳しい言葉で。

 でも祖母のおばあちゃんは優しくなかった。優しくできなかったという方が正しいのだと想う。

 終戦。これを機に両親とたくさんの兄弟と、台湾から帰国した祖母。とはいっても、生まれたのが台湾なので、ふるさと鹿児島を訪れるのは18歳のこの時が初めて。もちろんおばあちゃんと会うのもこの時が初めてだった。

 台湾から船に乗り、和歌山の港に到着。そこから列車で鹿児島へ。今のような快適さはなかったであろう船や列車で、まだ小さな妹や弟とともに帰郷するのは、さぞ苦労の多いことだったろうと想像する。さらに、待っていたのは、焼け野原となった故郷。絶望しながら家に向かうと、ぽつんと一人バラックの中に横たわるおばあちゃんがいた。

 「入りゃならんど。」と彼女がこの時発した言葉は、77年たった今も祖母の心に深く刻まれている。「よう帰ってきたな。」と喜び、労ってくれることを期待していた祖母の。

 この話を何度も何度も祖母はくり返してきた。そのうちに、彼女がわたしにとんでもなく優しい理由に、想いを馳せるようになっていた。おばあちゃんに受け入れてもらえなかった悔しさから、あんなおばあちゃんにはならない、という覚悟が芽生えたこともあるだろうし、何より孫に愛情を注ぐことで、おばあちゃんとのことでついた「傷」を癒しているように感じられてならない。

 おばあちゃんだって、余裕がなかっただけなことはよくわかっている。大変な戦争を一人で乗り越え、食べるのにも精一杯。そのような中で、七人の子どもの面倒をみることなんてできないと思うのは当然のことだろう。

 そのことにも心を寄せながら、祖母がスイカの一切れをフォークでわたしの口に運んでくれる時にも、隣に座るわたしの肩にそっと手を伸ばしマッサージをしてくれる時にも、「ありがとう。みよちゃん(最近祖母をこう呼んでいる。)は優しいね。みよちゃんがおばあちゃんで幸せ。」とかならず伝える。そのことが少しでも、祖母の傷を癒すことにつながればと願いながら。

 そして、こうした祖母の愛情にふれるたび、噛みしめずにいられないのは、平和の尊さだ。大切な人をあたり前に守ることができるのは、穏やかな日々からこぼれる優しさがあってこそのようだから。


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