《おそうめん.》
もわっと纏わりつく空気。その中で、今年初のおそうめんを食べた。
茹でたのは、我が家の食事担当をしているわたしだ。ザルにあげる時、右手の薬指を小さくやけどしたのは、麺のおさまりきらない小ぶりなそれを使ってしまったからだった。
恥ずかしながら、日々三度のごはんをつくる中でめったにしない「失敗」を、簡単なはずのおそうめんでするというのは今回が初めてではない。
ちょうど一年前。祖母とふたりで過ごしていた日のこと。二人前を小さなお鍋に入れたせいで、そこからはみ出た部分に火をつけてしまったのだ。すぐに茹でているお湯に押し込んだため、幸い大事には至らなかった。でも真っ白なおそうめんの所々に、黒いコゲをつくってしまったことにひどく落ち込んだ。
「ごめんね。おそうめん焦がしちゃった。」と食卓に並べる。料理上手だった祖母をむっとさせてしまうのではと心配になる。ところが「大丈夫。大丈夫。」と嫌な顔ひとつせず、色のまだらなそれを口へと運んでくれた。二人並んで、黒い部分をお箸を持たない方の手でぽつぽつと取りながら、麺をすすっていく。
食べ終わるまで「大丈夫。」と言葉をかけ続けてくれた祖母の優しさに、すっかり悲しみは消えていた。気づけば、彼女の深い愛情に甘く包まれていたのだ。
もう危ない失敗はけっしてしたくない。おそうめんを茹でる時には、大きなお鍋とザルを使うことはしっかりと記憶にとどめた。同時に「失敗」は人の優しさにふれるきっかけを、そっと授けてくれるものなのだということも心の奥深くに刻まれる。
これから始まる暑い夏。今年もおそうめんのある風景に何度も出逢うだろう。きっとその度にあの祖母の「大丈夫。」が聴こえてくるのだと想う。
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