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【大学の話】優生学

はじめに

この前は国際関係におけるRiskについて考えていたのに、今日は一転して政治哲学の話をしよう。カール・ピアソン「優生学の基礎(The Groundwork of Eugenics、私訳)」および「実践的優生学の問題点(Problem of Practical Eugenics、私訳)」である。

どちらもインターネット上で無料で読むことができ、政治哲学の文章にしては比較的短く簡易な英語で読みやすい(50ページずつ位)ので、気になったら開いてみると良いと思う。ハイレゾだし。

概要

The Groundwork of Eugenics

「優生学の基礎」の方は、主にダーウィンによる種の起源論を発展させて当時の現代社会の様相を分析する。英国各地の人工統計およびその変化を、その土地の産業・社会階級別に分類した上で、
①人間における死は淘汰の過程である(優れた性質を持たないものは再生産する前に死す)
②後天的に会得された性質は遺伝しないことから、優れた性質は両親から遺伝するものである
②労働者階級は子供を多く作る傾向にあるが、そのうち優れた性質を持つものは、子供の数が少ない中流階級におけるそれの割合よりも少ない
ことを論じている。

The Problem of Practical Eugenics

ついで、「実践的優生学の問題」においては、イギリスの福祉制度に焦点が移る。労働者階級も子供もを持ちやすい今日においては、劣った個体の割合が増えていくことで社会全体の安定性が低下している。その背後には、子供たちが単純な「経済的価値」だった産業革命および子供の福祉の概念のかけた時代から、子供が守られるようになったことで、本来死にゆくはずだった子供が保護されるようになり(生き残るようになり)、また女性が労働するようになったことや福祉が発展したことで、出生率は下がったのに優秀な子供も減った(本来は出生率が下がれば優秀な子供が増えるように相関するはず)。だからこそ、劣った子供を保護するのではなく、優れた両親のもとにだけ子供を産ませよう、という理論である。彼の背景は統計学にあり、だからメンデルの法則のような細胞的・生物的な研究よりも、統計(biometrics)が適切な方法であると論じる。

どうして今?

こうやって書くと嘘だろ……と思われるだろうが、当時の(日本を含む)先進国では広く受け入れられていた理論である。ナチズム、ハンセン病への対応や、旧優生保護法のことを思い返せば明らかだ。

もう一つ言えば、上記の2冊、「優生学の基礎」「実践的優生学の問題」の双方は、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジから出版されたものである。ダーウィンが研究した大学でもあった弊大学は、この理論の発展と散布に大きく関わっている。1944年から1965年にかけて、ガルトンが設立したDepartment of Eugenics, Biometry and Genetics という学部があった。今やそれは深く反省され、もはやそんな学部はないし、公式に謝罪文が表明され(とはいえ数年前のことだが)、BAMEをはじめとするマイノリティや社会的に不利な学生への補償を手厚くしてきた。

思ったことなど

これを読んで(ちゃんと100ページ分頭からお尻まで読んだので読んだと言える)、私は二つのことを思った。

いち、政治思想

一つ目、ここに至るまでと、ここからつながっていく他の政治思想のこと。倫理でも政治でも世界史でも、西洋政治思想史というのに触れたことがある人は多いだろう。古代ギリシャから、アマルティア・センまで。例えば18世紀半ば、ベンサムの「功利主義」と19世紀J.S.ミルの「自由論」を比較したときに、ベンサムは「社会全体の功利が増えることを目標とする(総和主義)」を含むけれど、ミルの方はより個人による快楽の質の鍛錬に重きをおいた印象がある。そういうとなんとなく漠然としているものの、ベンサム的な功利主義を追求すると、」より良い社会を実現するために劣ったものは切り捨てる」ことにつながっていくのだろうか、ということがわかった、ような気がした。

重ねて、20世紀に台頭するフーコーの生政治の概念にもつながってくると思う。「社会の中の問題」を「別の手段で解決する」のが政治だったのが、「社会の中の問題」を「人口を手段として」解決しようとするその考えは、こういうところにも萌芽があるのではないかと思った。

に、社会の前提

二つ目、社会が「良い」とする前提について。統計分析の手法やその論理・帰結の方法の過ちと、ピアソンが提唱しようとした理論は別に捉えねばならないと思う。統計分析の方法自体が粗のあるものであることは容易に推察できる。一方で、ピアソンが提唱しようとした理論は、その背後に「社会全体の幸福が追求されるべき」というものがある。一方で、今日において、社会の前提はおそらく、「個々人が幸せになれる社会を作る」ことにある。だから、ピアソンの唱えたものは反証を導く方にバイアスがかかった状態で捉えられるのだろうな、と思った。つまり、優生学が今日において間違っていること、今日それが許されるものではないこと、そしてそれを導く方法に誤りがあったことは当然非難されるべきとした上で、当時の社会においてはそれが好意的に受け止められる方向に社会の前提が機能していたのだろうな、と思った。だからこそ、政治学という学問があり政治哲学として、自由やら正義やらについて、ごちゃごちゃ理論が必要なのだ。そういうものがないと、「今日の社会がどんなバイアスを持っているのかわからない」。社会がタブラ・ラサ的なものではないからこそ、何に同意しているのかを言語化する必要がある。

さん、効率的な社会を作ること

三つ目、私はこれを読みつつ、効率化と少子高齢化について考えていた。主に「実践的優生学」の方において、主に唱えられるのは「子供の経済的価値」である。優生学の根本には、どうすれば効率的に機能する社会を作り出せるのか?という、合理主義的な考え方があるような気がしていて(現代人としては個々の成員が幸せにならずして社会が機能しても意味がないと思うのだが)、それを完全追求すると、利益にならない個体は生かすな、という理論になるのだと思う。では、話をぶっ飛ばして少子高齢化について考えてみよう。高齢化社会においては、子供を産んだ方が良い、人口が多い方が良いということが当然として語られる。出生率を上げるにはどうすれば良いのか?その背後には、社会を(話者が思うように)今まで通りに機能させていきたい、という利益がある。が、一方で個々人の幸福追求を目指し、また現在進行形で人種・ジェンダーなど様々な面での自己実現を目指している社会の共通信念と、子供に利益を見出すイデオロギーは根本的に矛盾するのではないだろうか?と思った。そんな話を飛ばすなと言われればそうなのだが、社会の成員の価値と個々の意思尊重のバランスはどこにあるのだろうか?と思ったわけである。逆に言えば、人口増加が良いものであると仮定した場合に、子供を作ることを自己実現の中に位置づけることができれば、その対立を乗り越えて、自然に(自発的に)高齢化を解決できるのではないだろうか?じゃあどうするのか?と言われればわからないのだけれど。

終わりに

というようなことを考えながら、興味深いリーディングだった。私がここに書いたことは、私の限られた理解に基づくもので、誤りや誤認がある可能性が大いにあることを記しておこう。

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