おじいちゃんおばあちゃんち

小学生の頃いちばん仲よしだった友達は、おじいちゃんちが会津若松にあった。だから夏休みや冬休みの度に、会津若松のご当地キティちゃんのお土産をくれた。キラキラの、表紙の角度を変えると絵柄が変わるノートとか。こないだ実家に帰ったらなぜかリビングのカウンターにそれが置いてあった。
私には「おじいちゃんおばあちゃんち」というものがない。今唯一生きているおばあちゃん:父方の祖母とは、私が生まれた時から実家で一緒に暮らしていたから。
父方の祖父と母方の祖母は私が生まれる前に無くなっているし、母方の祖父は私が7歳の頃に無くなった。
福井に住んでいた母方の祖父との思い出はほとんどない。祖父が私に何かを喋りかけるワンシーンだけが記憶に残っているが、何を言っていたのか覚えていない。覚えていないというか、その当時も何をいっているか聞き取れないまま適当な返事をしていたんじゃないかと思う。なんか、風呂場で足を滑らせて亡くなったらしい。
福井のおじいちゃんは亡くなる前はおじさん家族と暮らしていたので、おじいちゃんと会うのはいつもおじさんの家だった。
おじいちゃんが亡くなった後に、取り壊される前のおじいちゃんの家に行ったことを覚えている。なんだかすごく暗かったし汚かった。トイレには排泄物や吐瀉物が詰まっていてすごい匂いがした。トイレをするとき、私はTシャツの前身頃をめくって頭に被って息を止めながらトイレをした。私の中の「おじいちゃんち」の記憶はそれだけだ。
おじいちゃんの死体を見た時、悲しいとかは何にも思わなかった。だって物心ついてからは数回しか会ってないし、会っても何言ってるかわからないし。喋るの、あんまり好きじゃなかった。人は死ぬと顔から色がなくなるんだな、と思った。
ところで、私はいつも便宜上宗教2世と名乗っているが、実は父方の祖父母も母方の祖父母も世界救世教の信者なので、宗教3世なのである。
だからおじいちゃんの死体がある部屋で、救世教版の仏壇(私は未だにあれを何と呼ぶのか知らない)に向かって、私と母とおばさんの3人で祝詞を唱えた。母とおばさんの祝詞のスピードはいつもよりとても速くて、私はついていけなかった。人は、父親が死ぬと祝詞のスピードが早くなるのだなと思った。
今生きているおばあちゃんは、もう91歳である。体の調子が悪いところはもちろんあるが、よく食べるしよく喋るし多趣味でいろんな所へでかけている。私は、おばあちゃんが嫌いなので、おばあちゃんが死んでも多分泣かない。
声がキンキンしていてうるさいし、無神経なことばかり言うし、人の話を聞かないし、すぐ機嫌が悪くなるし、わがままだし、そういうのを全部年のせいにする。私のうちの揉め事はだいたいおばあちゃんが発端である。それをお母さんとお父さんが対処して、子供たちは黙って自分の部屋に戻るというのが私のうちの日常だった。
家族みんな、おばあちゃんが死んでも泣かないんじゃないかと思う。いや、それは言い過ぎかな。お姉ちゃんとか、お父さんとかは少し泣くかもしれない。お母さんは、姑から解放されて泣くと思う。兄ふたりは絶対に泣かない。なんなら下の兄は「やっと死んだか」くらい言うと思う。お父さんお母さんの前で言わないことを祈るけど。
実家で一緒に暮らしていたから、こんなに嫌いになってしまったのかな。例えば、おばあちゃんはもともと北海道の人なのだが、彼女がそのまま北海道に住んでいて、私たちがたまに会いに行くという関係だったのであれば、もしかしたら私はおばあちゃんのことが好きだったかもしれない。おばあちゃんはとにかく外面がいい。友達と遭遇したりすると「かわいいおばあちゃんだね」と言われる。
北海道という遠い地に住むかわいいおばあちゃん。欲しかったな。それで、かわいいおばあちゃんの葬式で泣きたかった。
私のヒステリックなところやすぐ被害者面をするところはおばあちゃんにそっくりだ。私が年をとって、子供や孫ができたとして、私は「かわいいおばあちゃん」になれるんだろうか。死んだ時、子供や孫に泣いてもらえるんだろうか。

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